白尾悠著『サード・キッチン』

「多様性を"認め合う"」というが、この"認め合う"という言葉(行為)に戸惑う。
世界を"是正"するために必要なのは、何かを"する(始める)"、"しない(止める)"、或いは、"かえる(変更・調整)"と、教えられてきたような気がする私にとって、やはり"認め合う"という言葉(行為)は、感覚(身体)にフィットしない。

もしかしたら、それは私が「日本生まれ・日本育ちの日本人という特殊な立場」の人間だからかもしれない、と、白尾悠著『サード・キッチン』(河出文庫、2022年。以下、本書)を読んで思った。

1998年2月、アメリカの大学に留学した19歳の尚美が、その費用を負担してくれている、謎の「足長おばあさん」に宛てた手紙から、物語は始まる。
そこではアメリカでの生活・学業が充実していることが綴られるが、実際の彼女は、学校にも寮生活にもなじめずにいた。
それは、「アメリカ人=白人」という圧倒的なマジョリティの脅威に対し、自身は「圧倒的なマイノリティ」という日本では絶対に感じることのなかった状況に打ちのめされていたからだ(さらに英語力の拙さが拍車をかける)。
そんな尚美は、ふとしたきっかけから、「サード・キッチン」と呼ばれる学生食堂に誘われる。

サード・キッチンはマイノリティ学生のための、"セーフ安全スペース地帯"を標榜したコープだという。
(安全って……)
奴隷制や公民権法制定までのあからさまな人種差別は、日本にいた頃に本や映画で見聞きしたけど、歴史上の話だった。

たかが学生食堂が、と日本人は考えるかもしれないが、それは全く大袈裟ではない。

誰にとっての安全地帯か:基本的には非白人の、とりわけ低所得者、クィア、移民、留学生など、マイノリティの中でも周辺化されてきた学生にとっての、というのが基本理念だ。白人であっても、同様の背景によって大学のメインストリームから疎外され、僕らを取り巻く問題に共感し、連帯してくれる学生たちも、伝統的にアライ・メンバーとして、あるいはスペシャル・ミールのゲストとして、包括してきた。
このコミュニティの目的は、異なる社会階層、文化、民族、ジェンダー、性的指向といった多種多様なバックグラウンドを持つ学生たちの間で、対話を通してそれぞれの違いを受け入れ、互いをエンパワメントすることだ。

単にアメリカ(に国籍がある)人がマジョリティではない。同じアメリカで生まれ育っても、生まれながらにマイノリティである人が大勢いる。
尚美は、「サード・キッチン」をベースとして徐々に(アメリカにいる)人や文化を知ってゆく。

「やっぱりマジョリティはどうしたって白人になるでしょ。あたしたちみたいなpeople of color有色人種は教室でもどこでも疎外感があるし、大なり小なりいろんな偏見に晒されざるを得ないからね」
誰もが友達になりたがるようなアンドレアでも、疎外感や偏見を感じることがあるのかと、少し驚いた。
"people of color."
私はアメリカでは日本人である前にまずアジア人として認識されることは、入学後に気付いた。白人やアフリカ系、ラテン系と並列の人種カテゴリーとして"アジア系"がある。あのアジア人、この南アジア系、あそこの東アジア人、という感じ。日本ではアジア人だと自覚することはほとんどなかったけど、すぐにそういうものか、と慣れた。黒髪に厚めの目蓋まぶた、低い鼻と短い手足。集団の中に自分と同じ特徴を持った東アジア系を見つけると、やはりどこかホッとする。
でもアジア人だからといって、これまで自分が"有色"人種だと意識したことはなかった。白人を基準にして、白くなければイコール色が有るということ。理屈ではわかるけど、私やアンドレア、なんならセレステもみんな一緒なんて。そんな大雑把なラベルはあくまで外付けのもので、自らのアイデンティティになることは、この先もなさそうだった。

この時点ではまだ、尚美は「アジア人」として、ただマジョリティとして虐げられる存在として、自身を卑下するだけだった。
しかし、韓国人留学生のジウンの存在を知り、「自分自身も気づかぬうちにマジョリティとして人を虐げる存在であった」という事実に直面し、大きなショックを受ける。

尚美を通して本作を、「サード・キッチン」を、アメリカを、世界を知った読者も、自身が「何も知らない存在」であり、「何も知らないうちに他人を差別したり、傷つけている」事実に打ちのめされる。

一方には一方の「ちゃんとした正当な事情」がある。しかし、その「ちゃんとした正当な事情」が他方を虐げたり、傷つけたりもしている。
各々の「ちゃんとした正当な理由」が複雑に絡み合っていて、でも、それを修正しようとすると、今度はまた全く予想外のところに別の軋みが生まれたりする。その軋みが分断や差別を生み、最悪、戦争に発展する。

上に引用したように、尚美を含めた我々日本人が、『奴隷制や公民権法制定までのあからさまな人種差別は、日本にいた頃に本や映画で見聞きしたけど、歴史上の話だった』と、(全てではないが他国に比べ大きく)マイノリティや差別に無関心、というか、関心を寄せる必要性を感じないのは、おそらく、島国であり、かつて長らく鎖国していたことも大きな要因であろうが、つまり、同じ日本人として出自に大きな差異がない(と思っている)からだろう。
しかし、では、同じ日本人は「ちゃんとした正当な理由」も同じかといえば、そうではない。ということを、本書では「足長おばあさん」の謎によって示している。

同じ日本人でも、個人個人が(ほんのちょっとした差異も含めて)異なる「ちゃんとした正当な理由」を持っており、だから簡単にわかり合えるわけではない。

この物語は、直美の視点を通してそれらの現実を繊細に丁寧に、しかし変なオブラートに包むこともなく、詳らかにしていく。
世界中の人々が「わかり合える」なんて、きっと、ただの理想でしかない。

しかしそれは、「絶望」を意味しない。それもこの物語が教えてくれる。

目的は、異なる社会階層、文化、民族、ジェンダー、性的指向といった多種多様なバックグラウンドを持つ学生たちの間で、対話を通してそれぞれの違いを受け入れ、互いをエンパワメントすることだ

正誤でも優劣でも、正義/不正義でもなく、世界を、個々を、互いを「認め合う」ことで解決できる。それには「対話」が必要不可欠だ。

本書は、私を含め、「多様性」という言葉が感覚(身体)にフィットしないと戸惑う日本人にとって、それが何であるのか「考え始める」ことの一助となるはずだ。









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