2022年9月24日土曜日 酒。読書。観劇。それだけ ~お米とすき焼き~

私の「note」のプロフィールは、『酒。読書。観劇。それだけ』とそっけない、というか投げやりな一文だが、それで充分説明に足りている。

たとえば、2022年9月24日……

12:10 映画『川っぺりムコリッタ』@渋谷・ユーロスペース

3連休の真ん中。
台風が接近しているらしいのだが、雨の中の渋谷は人は多い。昼前だからかマークシティーの飲食店も行列が出来ている。
そこを抜け、円山町のユーロスペースに向かうが、OnAir系のライブハウスの前に若者の人だかり。どうやら系列4店合同で「NAKAYOSHI FES」というのをやっているらしい。人だかりは道路まではみ出ていて、傘を差しているのもあり通り抜けに難儀。
やっとの思いでユーロスペースに到着。

実にご飯が美味しそうで、主人公の山田(松山ケンイチ)が炊飯器の前で炊き上がりを待っている姿に何故か感動してしまう。

終映後再び渋谷駅の辺りまで戻り、本屋をうろつき(雨は上がっている)、2冊ほど購入して元来た道を通ってユーロスペースに戻る(相変わらず、OnAir系のライブハウス前は混雑している)が、今度はその階下にある「ユーロライブ」へ。

16:00 舞台『今、出来る、精一杯。』上映会(根本宗子×伊藤万理華トーク付) @渋谷・ユーロライブ

2019年に東京・新国立劇場 中劇場で上演された舞台『今、出来る、精一杯。』(根本宗子作・演出。以下、舞台と記す)の記録映像上映会。
生の舞台も観ているが、面白かった印象があるので、トークイベント付きの上映会なら、と観に行くことにした次第。
そういえばDVDとかでも見かけないなぁと思っていたら、上映後のトークライブで根本さん曰く「映像は撮っていたが、予算の関係で未編集のままだった」とのことで(それで、今回の公開が発表になった際、SNSで「公開しないで独りで楽しんでいたのか」と見当違いな批判を受けたらしい)、やっと編集ができて晴れて公開となったという。

上の階で観た『川っぺりムコリッタ』(以下、映画と記す)もご飯が美味しそうだったが、この芝居も幕開けからご飯が登場する。で、結局、「食べることで自殺しないで済む、生きていける」という幕切れ(後述するが、実際はそれだけではなくて、もっと複雑というか、メンドクサイ)。

それだけでなく、内容的にも同じように、人と人とのコミュニケーションがテーマとしてあるのだが、映画が「コミュニティー」として横に広いのに対し、舞台は「恋愛」として縦に深い。だから舞台の方は、(作風が大きく影響しているが)「(恋愛としての関係性は)互いのメンドクサイことを引き受けること」という、かなりメンドクサイ結末になる(誤解が無いよう断っておくと、この無駄に熱いメンドクサさが、この作品の魅力である)。

で、トークイベントはこの上映のアフタートークでもあるが、10月14日に公開される根本さん原作・脚本の映画『もっと超越した所へ。』(山岸聖太監督)の宣伝も兼ねていて、伊藤万理華さんもその映画に出演しているとのこと。

トークイベントが終わり劇場を出ると路面がひどく濡れている。ユーロライブにいる間に土砂降りに見舞われたのかもしれない。
幸い雨は上がっているので、歩いて10分ほどの「酒とさか菜」に行ってみるが、外から見る限り混んでいそうなので、諦めて渋谷駅に向かう。
銀座線に乗って新橋で降り、銀座方面に向かって歩く。新橋駅を出た時には弱かった雨が、だんだん強くなってくる。
結構濡れながら「夢酒みずき」に到着するも土曜だからか連休だからか閉まっている。仕方がないので、地下を歩いて有楽町の東京国際フォーラムにある系列店「酒蔵レストラン宝」に向かう。

20:15 酒蔵レストラン宝

今日観た映画&舞台つながりで「お米」から出来ている日本酒を注文。

もう「ひやおろし」の季節か……

多くの日本酒は「酒米」を用いるが、一部で「飯米」を用いたものある、というのが現代の認識だが、もちろん昔から「お酒専用のお米」があったわけではない。
山内聖子著『いつも、日本酒のことばかり。』(イースト・プレス、2020年)には、こう記されている。

酒米が生まれたのは近年のことです。(略)時代をさかのぼると、江戸時代末期には、研究熱心な農家が増えて食用米の選抜などが行われ、その流れで、徐々に日本酒づくりに合う酒米が開発されていきました。(略)
本格的に酒米というものが認知されてきたのは、昭和11年に、兵庫県の農事試験場で育成された、山田錦が登場してからではないでしょうか。(略)
飯米を使っていた頃は、おそらく地元の米で日本酒をつくっていましたが、この頃から酒米は他県から買ったものを使う、という方式(略)

映画で「半年間家賃を滞納している」溝口(吉岡秀隆)の部屋から漂う良い匂いを嗅ぎつけた山田、島田(ムロツヨシ)、南(満島ひかり)と娘が"たかる"すき焼きを思い出し、「鳥すき鍋」を注文する。

メニュー上は2人前だが、言えば1人前でもOK!(もちろん2人前の半額)

段々と鍋が出来上がってくる(ちゃんと店員さんがお世話してくれる)のをワクワクしながら見ているうちに、ふと、勝手に溝口家のすき焼きを食べようとする島田の図々しさに呆れて部屋(溝口の向かい)に帰ったかと思われた山田が「My箸」を手に溝口家に突進してくる迫力あるシーンを思い出し、少し笑ってしまう。

すき鍋をつまみに「お米」からできた日本酒を飲みながら、今日観た作品をぼんやり思い返す。

偶然ではあるが、両作は「人と人とのコミュニケーション」がテーマで、映画が「コミュニティー」として横に広く、舞台は「恋愛」として縦に深い、と先に考えた。
しかし、両作とも前提として「基本的に全面的にはわかりあえない」という諦観を持ち、ではそこから出発するコミュニケーションとは何か、を問うている。それはきっと、あらゆる場面で極端に二極化してゆく現代だからこその問いであろう。

ドミニク・チェン氏は著書『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』(新潮社、2020年)に、こう記している。

結局のところ、世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け入れ容れるための技法である。「完全な翻訳」などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。

映画において、島田は他人に対して図々しく振る舞うが、他人の内面には決して立ち入らないし、自分の気持ちを他人にわかってもらおうともしない。それは、「わかりあえる」と無邪気に信じ込んでいる「普通(だと無邪気に信じ込んでいる)」の人間が彼と関係性を築こうとすることに対する、怯えであり防御ではないのか。

一方で、舞台は「心に傷を持つ(と勝手に思っている)人」同士で「わかりあえる」と(無邪気に)思っている車椅子生活を送る長谷川(根本宗子)が、恋人の安藤(清竜人)と「わかりあえない」ことに傷つくが、最終的に「自分はわかりあえる(わかりあいたい)のではなく、(一方的に)わかってほしかっただけ」ということに気づく。
だからこそ彼女は、自分を車椅子生活にさせた金子(小日向星一)なら自分の気持ちが「初めからわかっている」というところに救いを求めるのである(ちなみに長谷川は、「ご飯」に気づかなかった安藤に傷つき「弁当」をくれた金子に救われるのだが、それはつまり「食べることは生きること」を示唆している)。
さらに、はな(坂井真紀)は傷ついてばかりの安藤なのに、自分が傷ついたときに彼が「わかろうとしてくれない」ことにショックを受け、彼の元を去る。

近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。

露呈してしまっているからこそ、「ハイツムコリッタ」の住民は対話しない(能動的な「拒否」ではないことに留意)し、「ママズキッチン」で働く店長を含む従業員(バイト)たちも同様である。

わたしたちは自らの生のプロセスを託す相手を見つけながら生きている。友人や恋人、仕事仲間、もしくは師弟といった関係性のなかで、わたしたちは共に在ると感じられる場をつくりあげる。

『対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引』することにより『共に在ると感じられる場』が作られるという「理想(或いは原理主義)」から「ハイツムコリッタ」「ママズキッチン」の在りようを軽蔑するのが、久須美(春名風花)で、既に露呈してしまっている『合理性を十分に発揮できないこと』に気づいていない彼女は、だから職場の中で浮いている

舞台は各人物(特にななみ(伊藤万理華)とはな)が引き受ける「メンドクサイ」事案が過剰で異常なため、久須美が傷つくことによって「正論/正義」が完全敗北したように見えるが、何故そう見えるのかといえば、「正論/正義」を振りかざすのは「わかりあう」ためではなく「(一方的に)わからせる」ためだからだ。
敗北を背負って立ち去ろうとする久須美を坂本(瑛蓮)が引き留めるのは、異様な「メンドクサイ」を目の当たりにした坂本が、久須美の想いに「(正論ではなく)純粋に正しい」と共感したからである。

差異を強調する「対話」以外にも、自他の境界を融かす「共話」を使うことによって、関係性の結び方を選ぶことができる。(略)まずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だと思う。

これまで自分の想いを口にしなかった坂本が久須美を強く抱きしめて絶叫するのは、まさに『(共感から発した)「共話」を使うことによって、関係性の結び方を選』んでいるのであり、坂本は自分の気持ちを正直に絶叫することで『まずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築』こうとしているのではないか。

さらに言えば、メモという「文字」に頼っていた坂本がそれを置き、抱きしめる、絶叫するといった「自分の身体」で『自他の境界を融か』していることは、今のSNSなどによる「文字による極端な二極化」に対する一つの処方箋を示唆していないだろうか。

だからこそ、このラストシーンが強く印象に残るのである。

などと酔った頭で考えていたのである。






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