自分の「心」や「身体」と折り合いをつけながら生きていく。そして他者とも。

先日テレビを見ていたら、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さんが、「繊細さん」と呼ばれる「HSP(Highly Sensitive Person)」であるという話をご自身でされていた(フジテレビ『ワイドナショー』 2020年9月20日放送分)。
印象的だったのは、『これは病気ではなく、「そういう気質」だ』と強調されていたことである。

身体に明らかな障がいがなくても、「HSP」などと名前がついていないものであっても、私自身を含め人は他人からは見えない心や気質に「症状」とまではいかないレベルで、どこかしら「違和感」みたいなものを抱えているのだと思う。

たとえ、本人がその「違和感の原因」を把握/理解していても、それで本人が完全に「違和感」を克服できるわけではない。
結局のところ、どうにもならない「違和感」に、時に「怒り」「見ないようにしたり」「なだめすかしたり」と、上手にコントロールしながら付き合っていくしかないのだろう。

どもる

「なかなか完全に克服できない」ことの一つに「吃音」というのがある。

日本では成人の1%、つまり100万人ほどが吃音を持っており、厚生労働省では吃音を精神障害と分類しているが、その原因や治療は実のところ、まだよく分かっていない。

吃音は一般的には「症状」だとされているが、その原因や程度は人によって大きく異なる。(略)世の中には吃音が原因で対人関係がうまくいかず、就職ができなかったり、自死に至るケースもある。

ドミニク・チェン著『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』(新潮社、2020年)から引用したのだが、彼自身が吃音を持っているそうだ。彼の場合……

ある言葉を発しようとした刹那、喉元まで出かかった言葉が声となって出てこない。無理に押し通そうとすると最初の音を連発するか、もしくは会話のリズムを外してしまい、無言で終わってしまう。

彼は『恥ずかしい「弱点」を他者に悟られたくない』ために、『いかに相手に自分の吃音のことを気づかれないようにするか腐心した』という。
そうしているうちに、自らの意思で吃音を「克服」できないにしても、なるべく吃音にならないような『対処コントロール』ができるようになった。

特定の言葉を発生しようとすると吃音が頻発するが、その他の場合では症状が軽減している。(略)話している最中に、この後で吃音が生じるだろうという気配が察知されると、その予感の塊が到来する前にもっと口に出しやすい言葉が意識の中で検索され、準備される。

彼によると、この手順は『無意識に作動するプロセスが作動している』らしい。もちろん、この『プロセスの作動』で吃音が完全になくなるわけではない、時には難発なんぱつという『意識のなかでは言いたい言葉が完全に「見えて」いるのに、喉から上に出てこない状態』が起こることがある。

彼はこの自身の「吃音への対処のしかた」が、『もしかしたら自分の思考パターンをかたちづくるうえで、根源的ともいえる役割を果たしているかもしれない』、つまり、吃音という『物理的な不都合によって、自分を自分たらしめる想像のきっかけが生まれる』ということに気付いたのだ。
そして、その結果として、『今の自分がある』のだという。

身体も「どもる」

彼が自身の吃音について改めて考えるきっかけとなったのが、吃音の当事者研究を行う美学者の伊藤亜紗氏との仕事にあったそうだが、その伊藤氏の著書『記憶する体』(春秋社、2019年)には、「身体がどもる」というチョンさんという方の話が出てくる。

チョンさんは慢性炎症性脱髄性多発神経炎(CIDP)という、『神経をつつむミエリン鞘という組織がはがれていく』『慢性的な痛みを伴う』難病を発症されている。

できることとできないことの規則性がないことも、チョンさんの体の特徴です。両腕を上にバンザイすることはできるけど、そのまま下すことができない。でも右か左、どちらか一方ずつであればスムーズに下すことができる。(略)
他の人とものをやりとりするときも、体が言うことを聞かないことがあります。たとえばティッシュを渡したり、(略)ティッシュを取れたとしても、それを相手に渡そうとすると、手が頑なに離してくれないのだそうです。(略)
町で人とすれ違うのも大変です。避けようとすると、逆に引っ張られてしまう。「体が触れたか触れないかのような状態になると、暴れだしちゃうんです。人がすーっと通って行っただけで、磁石のN極とS極みたいにひっぱられちゃう」

(『記憶する体』)

この状態をチョンさんは自身で「体がどもる」と表現しているのであるが、伊藤氏は『もちろん、CIDPと吃音は全く別物です。けれども、自分の体の状態が、物(言葉)や他社によって敏感に変えられてしまう事態は、共通する部分がある』と同意する。

必要以上に柔らかくなったり、あるいは逆に硬くなったりするチョンさんの体。確かに吃音と似ています。
体が柔らかくなるのは、吃音の「連発」と呼ばれる症状に似ています。連発は「たたたたたまご」のように、同じ音を繰り返してしまう症状。(略)
一方、硬くなる状態は「難発」と呼ばれる症状に似ています。

(『記憶する体』)

これに対するチョンさんの対処方法も、吃音のドミニク・チェン氏と同じようなものである。

大切なのは「逸らす」こと。多くの吃音当事者は「言い換え」を行います。(略)
意識して準備してしまうと、うまく行為できなくなってしまう。チョンさんも同じです。そこでチョンさんは、ものを取るにしてもなるべく取ろうと意識しないで取るようにしています。考えずに、さっと取る。「頭の中で指示を出すとストップしちゃうんで、それで『逸らす』という方法になったんだと思います」。(略)
あるいは、他の人との相互行為の場合には、「行為の主導権を人に明け渡す」のも有効なやり方です。(略)
自分に主導権があるとうまくいかないけれど、相手の行為の文脈に自分が乗っている状態だとうまくいくのです。吃音の人が、リズムに任せてノっていると問題なくしゃべれるのと似ています。

(『記憶する体』)

チョンさんは、8年掛けて、自分の「身体」に折り合いをつけていったという。それはきっと身体だけでなく、『自分の身体がコントロールできない』という絶望や恐怖といった「心」とも折り合いをつけていく作業だったに違いない。

そして他者とも

ドミニク氏もチョンさんも、自身の症状を完全にコントロールしているわけではない。
彼らのような症状がなくても、我々だって同様に、自分の身体や心をコントロールできていない。自分自身のはずなのに、「身体」や「心」と「わかりあえない」と感じることも多々あり、その度にショックやもどかしさのあまり、怒りを覚えたりもする。

自身の身体であってもこうなのだから、他者との関係においては、なおさらである。

他者との関係性における「わかりあえなさ」について、前出のドミニク・チェン氏の著書に、こんなことが書いてある。

結局のところ、世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共にあることを受け容れるための技法である。

いずれの関係性においても、固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこからお互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

インターネットやSNSの世界において、自分とは違う考えや意見を全否定どころか敵視するような風潮が溢れている。
それは、ドミニク氏が言うように『すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする』からではないだろうか。
しかし我々は、理解しているつもりの自身の心と身体でさえ「わかりあえない」のである。

他者との関係においても「わかりあえない」のは自明のことではないだろうか。

たとえ「わかりあえない」としても、それは「障がい」ではない。
だから否定することも、敵視することもない。

自分と他人との「わかりあえない」隙間を『新しい意味が生じる余白』として再定義し直す。
時には、チョンさんのように『行為の主導権を人に明け渡』してみたり、ドミニク氏の言うように『じっと耳を傾け、眼差しを向けて』みたり。

そうしているうちに、やがて、『お互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる』。
それは「わかりあえる」こととは違う、別の関係性だ。
それがきっと「折り合いをつける」ということなのだろう。

おまけ

先日、ドミニク・チェン氏がディレクターを務める企画展「トランスレーションズ展−わかりあえなさ』をわかりあおう」(@21_21 DESIGN SIGHT)を観た。

我々は科学技術の発展により、世の中の様々なものを一方的に「わかった」つもりでいるが、それは人間の単なるエゴでしかなく、実はどれとも、何も「わかりあえていない」。
「わかりあう」とは、一方的なアプローチや解釈ではなく、相手からも何か「返してもらう」、そしてそれをちゃんと「受け取り」「解釈する」必要がある。

企画展では、我々が何とも「わかりあえていない」ことを明らかにし、それでも「わかりあえる」ということに少しでも近づくために、いかに科学やインターネット技術を使うかという様々な試行(思考)が紹介されていた。
「結局のところ『わかりあえることはない』のを前提とし、でも/だからこそ『少しでもわかりあうために歩み寄ろう』」という気概を感じた。

この記事が参加している募集

ノンフィクションが好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?