「落語をやってください」~ 十代目柳家小三治師匠を支えた言葉

人間生きてりゃ誰しも、事あるごとに思い出すー迷った時に指針になったり、苦しい時の支えになったりするー言葉に出会うだろう。

ネットで見かける「名言集」のようなものや書籍から感銘を受けることもあるだろうけど、やっぱり誰かから直接言われた言葉は強烈な印象として残る。
家族や友人、恩師、上司や同僚…あるいは恋人の一言かもしれない。
旅先などで見知らぬ人から言われた言葉が忘れられなくなる事もあるだろう。

先日亡くなった、十代目柳家小三治師匠にも忘れられない言葉があった。

今日(2021年10月14日)からちょうど35年前の同日、上野本牧亭で行われた「三人ばなし」の会。小三治師匠にとって余程特別な日だったのか、「まくらの小三治」としても貴重な「まくら」だけの一席になった。

エー。今日は、ちょっと予定を変更しましてあたくしの世間話といいますか、身の上話にもなりますが、お聴きいただこうというわけなんでございます。

こう切り出した噺は、そこから遡ること17年前、昭和44(1969)年 29歳で真打ちに昇進する直前、まだ二ツ目の「さん治」と名乗っていた頃のこと。

当時のさん治は、テレビのバラエティー番組などでお茶の間の人気者。
だが、それが仇となり落語家として認知してもらえず、テレビで知ったファンが寄席に来ても落語しか噺さないさん治にガッカリして帰るといった有様。

当時の彼の趣味は「ボウリング」-『ったって井戸掘りじゃありませんよ。球ころがしですね』ーで、好きが高じて各地のボウリング場を巡ってしまうほど。その日は、独演会で訪れた沼津で球をころがしていた。

そこへ女の子ですね。そう、十七、八、いや九、そんな歳でしたかねぇ。その子がつかつかっと小走りでやってきましてね、ほとんど前置きもなしあいさつもなしに、いきなり、
「落語をやってください」
こう言うんです。
「え?」
「落語をやってください。テレビであんなガチャガチャしたことやってもらいたくないんです」
って、こう言うんですね。

ボウリングの球を抱えたままのさん治、呆然としながら「どうもありがとう」と返すのがやっと。その子は、『ツツツツッと向こうへ駆けていっちまった』。

「落語をやってください」って、一体あの子はどこでオレの落語を聴いたんだろう

いぶかしみながらボウリング場を後にしたさん治、偶然、その子と再会する。

まあ、あたしのことですから、「電話番号教えて」とか、そういうことは言いませんね(笑)

『あたし、芸者なんです。芸者屋の娘です』
彼女に問われて今日の独演会の場所を告げる。
『そこ知ってます。観に行けませんけど、頑張ってくださいね』

キリッと言い終わると、きびすを返すようにそこを立ち去っていった後ろ姿が、今でもはっきりと残っています。
午後の日差しをこう斜め上のほうから受けてね、長い髪をキュッとひっつめにして後ろで一本にギュッとしばった、そういう女の子でした。

余韻を残す言葉だが、噺はここで終わらない。
さん治が独演会の会場に着くと、楽屋に『大きな新茶の缶』が届いていた。

熨斗紙がついていまして、そこに「笑子」とだけ書いてあるんですね。
「ウメ……笑子えみこさんからです」とこう、その(缶を預かっていた)人は言ったんです。
「ウメ」ってのは聞こえたんですがね、なんだかごちょごちょって、ちょっと聞こえなかった。

ちゃんと聞き返せなかったさん治、「ウメ」という言葉を頼りに、沼津の電話帳で「梅」と付いた置屋を探す。3軒見つかった。
ここだろう、と見当をつけた置屋に真打ち披露の記念の品を送った。返事はなかった。

『落語をやってください』
十代目小三治を襲名してからも、ずっと「笑子」の言葉を大切にしてきた。

事実、そのときに自分よりずっと年下の女の子に「落語をやってください。テレビであんなガチャガチャしたことやってもらいたくないんです」と言われたということは、その後、正直言って、ま、自分のお守りのようになっていました。何かのおりに、その子に言われたその一言がハッと耳をかすめて、あ、そうかと気を取り直すようなことがずいぶんありました。自分は落語をやっていくんだと思う一つの、なんてんですか、支えってんですか、よすがにもなっていたと思うんですね。

その後、仕事で何度か沼津へ行った。少しでも手がかりが欲しかった。

三度目に行ったのが今から五年くらい前だったでしょうか。(略)
で、又、この話をしました。とてもいい子でしたという話を。

なんと彼女を知っているという人が現れた!
だが、驚いたことに彼女は『五年ほど前に死にました』。

絶句したまんま(略)涙がボロボロボロボロ出て止まりませんでしたね。
変ですか?
なんか自分だけで、自分の思い出と相撲とってるような気もするんですが、でも、ほんとなんです。


なぜ小三治師匠が1986年10月14日に、東京の寄席で彼女の話をしたのか?
『その後日談がね、つい最近あったのです』

今日は十四日ですね。八日から十日にかけてそれがあったのです。七、八、九と沼津の近くで公演がありました。

彼女が死んだと聞かされて余計に気になっていた小三治師匠、ここでもまた電話帳で置屋を探し始める。
記憶を辿って思い出すと、ふと「梅栄」という名前が頭をよぎった。
けれど、当時3軒あった「梅」のついた置屋は1軒も見つからなかった。
その代わり「新栄」という置屋が見つかった。
屋号を改めたのかもしれない。
ええぃ、こうなったら一か八かだ。
「新栄」を訪ねた。

応対してくれた置屋の女将に「笑子」の話を切り出す。

「ええ。よーく知ってますよ。ちょっと。ちょっと出てらっしゃいよォ」
襖のむこうに声をかけました。(略)
出てきたのはその方の娘さんでした。泣いてるんです。
「今、あちらですっかり聞かせていただきました。そこまで想っていただいたなんて、笑子ちゃん幸せです」
「この子ね、あたしの娘なんですけどね。笑子ちゃんと同級生なんです。芸者も一緒に出ました。芸者の同期生です。(略)お互いに、むこうがこれを稽古したっつっちゃあ、あたしもこれを稽古する。むこうがやったっていえば、こっちも負けられないって、そういうライバルだった」
と、こう涙ながらに言うんですよ。びっくりしましたね。

一か八かの博打に勝ってしまった。
でもそれは、長年信じようとしなかった「笑子」の死が遂に決定的になったことを意味した。

ほんとに一度会って、お礼をいいたかった。それを死んだってえのも知らないで、いつかあの子を座敷に呼びたいって、東海道線で沼津の辺りを通過するたびに、車窓から町並みをこう追いながらいつかはいつかはと思って来た十九ママ年。
あれは一体何だったんだろう。何とも虚しい気持ちになりましてね。

『落語をやってください。テレビであんなガチャガチャしたことやってもらいたくないんです』

富士霊園にねむっています。親の墓参りにも満足に行かないあたくしが二日続けて行ってきました。

『まあ、それだけの話でございました』と締めた小三治師匠は、『ごめんなさい』と呟き、高座をおりたという。


「沼津の近くでの公演」初日からちょうど35年後の2021年10月7日。
十代目柳家小三治師匠が逝った。享年81。
向こうで52年前のお礼は言えただろうか…


(出典:「笑子の墓」ー 柳家小三治著『もひとつ ま・く・ら』(講談社文庫、2001年)所収)

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