原作と映画の素敵な巡り会い~森下典子著『茶の湯の冒険 「日日是好日」から広がるしあわせ』~

2024年が始まって間もない頃、テレビドラマ化された漫画を巡って、とても悲しい出来事があった。
私は原作漫画も知らなかったし、テレビドラマも見たことがない。だから、この件に関して何か言うべき立場にはない。
ただ、観劇や映画鑑賞を趣味とする一人として、報道で知った時はかなりショックを受けたし、以降の数日間をとても重たい気分で過ごした。
何より危惧したのは、一般の方々が連日の報道によって「映像化すると原作が常に蹂躙される」と誤解してしまうことだった。

だから私は、原作と素敵な出会いをした(であろう)作品を必死で思い出し、その希望に縋ろうとした。
たとえば、その時期に公開された映画『夜明けのすべて』(三宅唱監督)では、改変された設定について原作者の瀬尾まいこ氏が、『私が書いたエピソードではないのに、うんうん、知ってる、この世界は知っていると感じました』と映画のパンフレットで語っている。
たとえば、映画『きょうのできごと』(行定勲監督、2004年)の原作者の柴崎友香氏が映画撮影の時の話を盛り込んだ続編を書いたり、『きょうのできごと、十年後』(河出文庫、2018年)の巻末には『行定監督が紙上映画化』と称して監督の短編小説などが掲載されている。

決して『原作が常に蹂躙される』わけではないのになぁ……
そんな悶々とした気持ちを過ごす中で私は、映画『日日是好日』(大森立嗣監督、2018年)の原作者・森下典子氏の著書『茶の湯の冒険 「日日是好日」から広がるしあわせ』(文春文庫、2024年。以下、本書)にある文章に救われた。

映画化されることで、自分の描いた世界が変わってしまうのを嫌う原作者は少なくないという。その気持ちもよくわかる。……でも、私はやっぱり嬉しかった。

本書は、一般的なメイキングや裏話といった類のものではなく、『映画の撮影に、スタッフとして参加した例はないという』原作者自身が「体験した」過程が記されている。

だから本書を読めば、映画人がいかに「本気で真摯に」原作と向き合い、制作しているかがわかる。

本書は、原作(文春文庫)を熱い想いで映画化したいとオファーしてきた吉村プロデューサーと大森監督が、原作者からお茶を習うところから始まる。それはやがて、撮影スタッフにまで及ぶ。

やがて、スタッフの中にも、お点前のできる人が現れた。(略)
「きれいなお点前ねえ……」
彼は、K子さん(引用者註:原作者とともにお茶の指導に当たられた方)が出演者に指導するのをそばで見て覚えたらしい。この間まで、茶杓も柄杓も知らなかったのに、あっという間に、お点前を身につけてしまったらしい。(略)
「どのみちやるなら、嫌々やるより必死に取り組んだ方がいい。僕は今では、お茶を愛してさえいますよ」

映画人たちの本気で真摯な熱意がリアリティーを与え、作品に生き生きとした命が宿る。

それはもちろん、スタッフだけでなく俳優も同じだ。

(主演の)黒木(華)さんは茶道の経験がなく、(助演の)多部(未華子)さんも幼稚園で触れたことはあるものの、ほとんど初めて同然だと聞いた。それなのに、二人とも短時間で手順を覚え、細かい所作の指導をすると、それもすぐに吸収して、よどみないお点前ができるようになったという。K子さんは驚いていた。
「やっぱり、普通の人とは全然違うのよ。(略)女優さんて、そういう能力に長けている人たちなのね」
しかし、のちにK子さんと私は、「女優の特殊能力」にもっと驚くことになる。それは、正しい作法を身に付けた黒木さんと多部さんが、撮影が始まった時、カメラの前では何も知らない初心者に戻れることだった。

それ以上に何より、この二人のお茶の先生・武田先生を演じた樹木希林さんの圧倒的な能力に驚く。

(公開後の)ある日、わが家に一本の電話がかかってきた。
「京都の表千家です」
(略)
「ところで、一つお訊ねしたいのですが、先生役の樹木希林さんは、ずいぶん長く、お茶をなさっていらしたんですか?」
「……いいえ、今までお茶の経験はまったくなかったそうです」
そう答えると、
「いやぁ~、信じられません」
と、驚嘆の声が返ってきた。
「あのたたずまいといい、お点前の間といい……、どう見ても、お茶の先生にしか見えなかった」

樹木さんは演技だけではなく、映画に賭ける意気込み、センス、大胆さも人並外れている。

横浜にある一軒家で、夏から工事が始まっていた……。
実は、樹木さんは、出演を承諾してくれた日、吉村さんと大森監督に、
「知り合いの空き家が一軒あるから使っていいわよ」
と、なんと家を一軒、提供してくれたのだ。そこをお茶室に改造するなり、「自由に使っていい」という。願ってもない太っ腹な提案に、吉村さんと監督は大いに喜んだ。
(略)
樹木さんによく似た女性が、この現場を見に来たという。この家から歩いてすぐの場所に住む、樹木さんの妹、荒井昌子さんだった。
(略)
荒井さんは、
「いいえ、ここは夫の実家です」
監督は、また「えっ」と、驚いた。
「樹木さんから『知り合いの空き家だから自由に使っていい』って言われたんです」
「自由にねえ……。姉が『記念になるから、おうち貸したら?』って言うんで貸したんですけど、まさかこんな大掛かりに家を変えて、まわりまで変わってしまうとはねぇ……」

そうして出来上がったお茶室に飾られた『日日是好日』の扁額にも驚かされる。印象的な書には「凛」という落款印らっかんいんが押されている(書・中西凛々子さん)。

それは清々しく型破りで、明るいパワーに満ちていた。
樹木さんの知り合いの、京都の小学五年生の女の子が書いたという。思わずうなった。
後日、樹木さんがこう言った。
「この子はね、字を書きたくて書きたくて仕方がないの。すごい素質がある。だけど、書は習っていない。習ったらこの字は書けないの」
その言葉の通り、大人には決して真似のできない書だった。

樹木希林さんは映画公開直前に逝去された。がんが全身に転移し、余命を宣告されていたという。
自身の持っている物を惜しげもなく映画に提供したのは、死期を悟っていたからなのか、自身の出演作にはいつもそうしてきたのか、今となってはわからない。

多数の人が心血を注いで作られた映画はヒットした。
原作本はベストセラーになり、海外での翻訳出版のオファーも多数舞い込んだ。
人はこれを「Win-Win」と言うかもしれない。確かにそういう関係にある。
しかし、本当の「Win-Win」は、ビジネス用語とは違うところにあるのではないか。
原作者は文庫版のあとがきにこう記している。

つい先日のこと、お稽古仲間の一人が言った。
「森下さん、映画になって、本当に良かったですね……。いつか、このお稽古場がなくなったらとても寂しいけれど、映画『日日是好日』の中には、ずーっとあるんですから。お茶室やお庭、先生が集められたお道具や掛け軸、それに先生がおっしゃったことも。私たちの稽古場は永遠に残るんですね」
それを聞いて、私は胸がいっぱいになった。
本当に本当に……映画になって良かった!

製作者たちの「懐」ではなく、観客たちをも含めたみんなの「心」が豊かになる、そんな「Win-Win-Win」の作品で満たされる世の中になればいいと、私は願っている。

メモ

映画『日日是好日』
2018年10月13日。@新宿ピカデリー(初日舞台挨拶あり)


この記事が参加している募集

#読書感想文

190,781件

#映画感想文

68,047件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?