映画『アンダーカレント』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

映画『アンダーカレント』(豊田徹也原作、今泉力哉監督、2023年。以下、本作)は感想が書きづらい作品だ。
それは内容が難解という意味ではない。
むしろ、「(堀(井浦新)や悟(永山瑛太)といった)物語的な謎」については劇中でほぼ説明されている。

「書きづらい」というのは、本作のテーマが、リリー・フランキー演じる探偵が、主人公・かなえ(真木よう子)に対して問う、『人をわかるってどういうことですか?』という言葉だからで、感想を含め何かを書こうとすると結局、「わかるってどういうこと?」に突き当たってしまうからだ(感想は、物語や自分の思ったことが「わかった、或いは、わからない」と思わない限り書けない。本作はその「わかった/わからない」がどういうことなのかを問うている)。

現在、東京都現代美術館で開催中(2023年11月5日まで)の企画展「あ、共感とかじゃなくて。」で、武田力氏の作品に一般の人に共感について思うことを付箋紙に書いてもらいそれを展示するというのがあって、その付箋紙に「共感はいらない。理解してほしい」といった意味のことを書いたものがいくつか見受けられたのだが、「共感」も「理解」も本作の問いに従えば、「わかってほしい/わかりたい」ということに帰結してしまう。

本作を観ながら「人をわかる」とは、関係性における安定・安心だけでなく、自身の尊厳にまで関わってくるのではないかと考えていた。
本作は「物語」であり、「物語」という性質上ある程度「わかりやすい」キャラ設定がされている(だからこそ「実はこういう人だった」ということを描くことができる)が、現実世界でも、こういった「物語化」或いは「キャラ化」が進んでいる。
『承認をめぐる病』(ちくま文庫、2016年)で著者の齋藤環氏はこう説明する。

「キャラ」とは「キャラクター」の省略形である。(略)
キャラクターといっても、必ずしも「性格」を意味しない。「キャラ」は本質とは無関係な「役割」であり、ある人間関係やグループ内において、その個人の立ち位置を示す座標を意味する。それゆえ所属集団や人間関係が変わると、キャラまで変わってしまうことも珍しくない。
(略)
ありがちなキャラの類型としては、「いじられキャラ」「毒舌キャラ」おたくキャラ」「天然キャラ」などが知られているが、先述したように、それは必ずしも、本人の性格と一致するわけではない。かといって、まったくかけ離れたキャラを誰かから強要される、というわけでもない。クラス内のコミュニケーションを通じて、半ば自然発生的にキャラの棲み分け、ないし振り分け ー「キャラがかぶる」ことがないようにー がなされ、クラス内での位置づけが決定されるのである。

[斎藤]

本作オープニングで、タイトル『アンダーカレント』の言葉の意味が説明される。いわく「表面の思想や感情と矛盾する暗流」。
であれば、「キャラ設定」された我々現代日本人(もはや大人も子どもも関係ない)は、「アンダーカレント」を抱えて生きていることになる。

いったん決定されたキャラは、個人の意思で変更することは難しい。はなはだしい場合には、キャラに相応しくない行動をすることでいじめの標的にされる場合すらあるという。(略)いじめの根絶が難しいのは、子どもたちが、たとえ「いじられキャラ」という役割設定であっても、どこにも居場所がなくなるよりはまし、と考えがちだからだ。

[斎藤] 太字は引用者による

齋藤氏の『どこにも居場所がなくなるよりはまし』という指摘は、本作では悟の考えに当てはまる。
彼は、自らに「キャラ設定」を施すことにより一時的な居場所を獲得するが、あくまで「設定」であるが故、すぐに自己破綻を来たしてしまい、自ら居場所を放棄しなければならなくなる。
そこまでして「居場所」が必要な理由を、社会学者の貴戸理恵氏は『「コミュ障」の社会学』(青土社、2018年)の中で、こう説明する。

「コミュ障」の奇妙さは、その制度的不利益の曖昧さと滑稽な外観に比して、主観的には、不釣り合いなくらい深刻な生きづらさを当人にもたらしうるということだ。その場の人間関係にうまくなじめなかったり、運悪くはじき出されたりするとき、「コミュ障」という名指しは、「私はここにいてよい大切な人間だ」という自尊心を深いところで傷つけるものになりうる。

[貴戸] 太字は引用者による

つまりは、「わかってもらう」ことは自身の尊厳につながっているのではないか。

ここで「わかってもらう」とサラっと書いたが、「わかる」という言葉(概念)には、「わかってあげる」「わかってもらう」と、主-従の関係が成立しているのではないか。
ということを思ったのは、かなえが初対面の探偵に「(悟のことは)わかっているつもりです」などと啖呵を切るシーンでの、かなえ(真木)の表情に、少し優越感のようなものが見えたからだ。

相手を「わかりたい」と思うのは、「あなたをわか(ってあげ)る」という優越感で、相手より上に立ちたい欲望から来るのではないか?
それはつまり、相手との関係性において、自分が主導権を握るということでもある。
全く無関係であるとは思うが、本作に登場するカエルになぞらえて言えば、現在において注目を浴びている「蛙化現象」がまさにそれで、相手を「わかっている(つもり)」の方が、その「わかっている(つもり)」を裏切られ(た気になって)、一方的に関係を断ってしまう行為が、「わかっている(つもり)」の当人が関係の主導権(選択権)を握っているという思いによって正当化される。

そのことを一番心得ているのがリリー・フランキー演じる探偵(パンフレットには『(原作者の)豊田徹也氏がリリー・フランキーの写真を見ながら、イメージを創り上げたキャラクター』とある。まさにベストなキャスティング)で、自身の名字・山崎を「やま"さ"き」と呼ぶか「やま"ざ"き」と呼ぶかを相手に選ばせている(本人は「やま"さ"き」だと言うが、掛かってきた電話に「やま"ざ”き」と応じている)。

或いは、悟が嘯く『僕は、人がしてほしいことや言ってほしいことがわかる』という言葉にも、関係性の主-従の気持ちが露呈している(彼は、それで優位に立っているつもりだが、結局、その欺瞞に絡め捕られて自己破綻する)。

「人をわかるとはどういうことか」。考えれば考えるほどわからなくなる。
しかし、「わからない」からといって、それが即「人がわかるなんて嘘、誤解、傲慢」ということにはならない(たぶん)。

たとえば本作で言えば、パンフレットにも書いてあるし、公開記念舞台挨拶でも真木本人が語っていたエピソード。

あの場面(終盤にかなえと悟が海辺のカフェで会うシーン)の撮影ですごく覚えているのは、かなえが「最後に思いっきりひっぱたいていい?」というところ。実際の真木よう子と永山瑛太の関係で、一発ひっぱたかれるってすごく怖いと思うんですよ(笑)。だから、瑛太がめっちゃ怖がっていたんです。その反応を見た時に「やだな、ほんとにひっぱたくと思ってたんだ、こんなに愛しているのに」と思ったら、なんか泣きそうになってきちゃって。

やっぱり「人がわかる」ということは、絶対に可能なのだと信じることができる。
この後の展開は、ぜひ、劇場のスクリーンで目撃してほしい。

メモ

映画『アンダーカレント』
2023年10月7日。@新宿バルト9(公開記念舞台挨拶付き)

最後に引用した箇所、公開記念舞台挨拶では真木よう子さんは『やだな』ではなく『バカだな』と発言していた。

さんざん「わからない」と書いたが、わかることもあった(私だけじゃなくて、観た人ほとんどわかったと思うが)。
私はまたしても原作を読んでいないので、これが原作どおりなのか「わからない」が、江口のりこさん演じる菅野の息子「コウちゃん」は「こうちゃん」だ。
最初にかなえから名前を聞かれた菅野は、「町蔵まちぞう」と答えるが、それはまさしく作家・ミュージシャンの町田こう氏の旧芸名・町田町蔵から来ている。後に、「コウちゃん」のフルネームが「こうへい」ということが判明するが、それはおそらく「(大友)康平」(ハウンドドッグ)であろう(まぁ、菅野の本名自体が「菅野よう子」だし)。

それにしても、本作のタイトルの現れ方は、クールでかっこいい。
オープニング、下手側に銭湯の浴槽縁に"独り"腰掛けたかなえがいて、上手側はお湯を張った浴槽。その「水面」に筆記体で書かれた「Undercurrent」。
エンディング、下手側に犬を散歩させる"二人"がいて、上手側は川。その「水面」に、またもや「Undercurrent」。

ここでサラっと"二人"と書いたが、それはどういうことか。
どう捉えようと観客の自由だが、私にはやっぱり「わからない」。
本作パンフレットにも寄稿している映画評論家の森直人氏が、以前、CSの日本映画専門チャンネルで放送された番組『いま、映画作家たちは2020 監督 今泉力哉にまつわるいくつかのこと』で、今泉作品では『物語の中で誰も成長しない』と評している。

(映画の)魅力的なテンプレとして「通過儀礼的な物語の構造」が鉄板としてあるが、今泉監督は映画の1.5~2時間の中で主人公が成長する構造を嫌う。「そんなに簡単に人間が成長してたまるか」




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