想いを"共有"する~映画『よだかの片想い』~

映画『よだかの片想い』(安川有果監督、2022年。以下、本作)は、人物や物語に"共感"ではなく、その中にある「想い」を"共有"する作品で、誠実に丁寧に撮られている。

それは原作である島本理生の同名小説(集英社文庫)に惚れ込んで企画段階から参加したという主演の松井玲奈の想いとともに、安川監督・城定秀夫(脚本)という2人の実力派映画人の誠実な想いがフィルムに焼き付けられている、ということである。

本作のストーリーを乱暴に一言でまとめると、「生まれながらに頬にアザがあるヒロインが恋に落ち、幸せを感じながらも傷つき葛藤し、その中で成長し、新しい自分に生まれ変わってゆく」ということになろう。

本作は、数多あまたの作品にありがちな「頬にアザ」というヒロインの「伝わりやすいコンプレックス」を過剰に強調して物語を進める、という手法を取らない。
登場人物たちがヒロイン・アイコ(松井)のコンプレックスをからかうこともないし、逆に過剰に気遣うこともない。

原作者は本作パンフレットにこう寄稿している。

約10年前に『よだかの片想い』を書き始めた頃、私は雑誌やテレビや広告を見るたびに、白く傷一つない肌ばかりが美しいとされている価値観に漠然とした疑問を抱いていた。

原作者・島本理生寄稿文

私は原作小説を読んでいないので本作がどの程度原作を反映しているのかわからないが、本作は「頬にアザ」という特徴を、「伝わりやすいコンプレックス」ではなく、「コンプレックスを伝わりやすく」するための象徴として捉えている。
それを踏まえて、原作者のいう『白く傷一つない肌』を「コンプレックス」と読み替えれば、「コンプレックスがない完璧な人」なんか一人もいないし、あったとしてもそれを克服することが求められる『価値観に疑問を抱いていた』となる。
だからこそ観客は、「頬にアザ」という辛い(と見られてしまう)境遇にいるアイコを第三者の視点からの"共感"ではなく、「誰でも(自分も)が持ち合わせている何かしらのコンプレックス」をアイコと"共有"して観ることになる。

本作は、観客の視覚となる「カメラ」と聴覚となる「音」で、アイコの想いを"共有"するように徹底的に誠実に丁寧に作りこまれている。
90分超の本編のうち、アイコが映っていないシーンはほんの数分しかなく、カメラは徹底的にアイコに寄り添う。
アイコが映っている以上、カメラはアイコ目線ではないが、しかし観客は「全くの第三者」ではなく「自分を俯瞰して見ているアイコ」の視点でアイコを観ている。
その視点を持った観客は、アイコと共に飛坂逢太(中島歩)に出会い、恋に落ちた幸福に浸り、苦悩し、成長することになる。

それとともに大事なのは「音」で、アイコが映っているシーンの「音」は、ほぼ「アイコが聞いている音」ー「聴覚が捉えた音」というよりは、彼女の中で「聞こえている音」ーと言って間違いないだろう。

以上を踏まえて本作を観ると、まず重要なのは飛坂を好きになるエピソードだが、初めて二人で食事をした時にアイコのセリフが突然切れてしまう。
初め何かの伏線だと思ったのだが(実際伏線で気づかなかっただけかもしれない)、あの瞬間、アイコは自分が何を話しているのか聞こえなくなったのではないかとも考えられる。それは聴覚の問題ではなく、飛坂に気を取られていたということではないか。
同じようなことは、飛坂が監督を務めるアイコをモデルとした映画で、アイコを演じる城崎美和(手島美優)の口から直接「飛坂と付き合っていた」と聞かされた直後のシーンでも起こる。そのシーンの意図は、そこで何が話されたかではなく、「付き合っていた」と聞いたショックでその後の言葉が聞こえなかった(あるいは、何を話したのか覚えていない)ということではないか。

飛坂を好きになるエピソードに戻ると、先の食事の後、終電間際の駅で突然飛坂からプレゼントを渡されたアイコは暫し逡巡する。観客はアイコの姿を見ながら、渡されたプレゼントの意味を聞きたい(≒飛坂と夜を過ごしたい)という衝動と、それを許さない理性とで葛藤するアイコの気持ちを"共有"する。
同じようにアイコが葛藤するのは、城崎が出演する舞台を飛坂と観て、二人が付き合っていたことに感づいて衝動的に劇場を飛び出した後。
追ってきた飛坂に別れを告げて去ったものの、すぐに立ち止まってしまう。衝動的に飛び出したことで自分の気持ちに気づいてしまったアイコは、自分の気持ちに正直になるか、抑え込んでしまうかで葛藤するが、観客はその葛藤を"共有"する。
恋に落ちるまでのこの2回の逡巡があるからこそ、クライマックスのアイコの潔い決断に、"共有者"は彼女の成長を見ることができるのである。

「カメラワーク」という点においては、アイコと気持ちがすれ違うようになった飛坂がアイコの部屋に押しかけるシーンで、結局関係が修復できず、飛坂が部屋を出て行った後のアイコの姿を手持ちカメラが追う。視点が定まらないその映像は、アイコの動揺を表現しつつ、そんなアイコに寄り添う"共有者"の視線を表してもいる(観客はこのシーン、辛かったのではないか)。

ところで、「音」という点において、先のシーンのように(無)意識的に聞こえなくなることもあるが、「聞こえているのに意識できない」ということもある。
そのことは、飛坂の「薄っぺらさ」を表現するとともに、実はアイコが最初からそれに気づいていたことを示唆する効果として使われている。

たとえば、先でも挙げた二人っきりでの食事シーン。
日本酒が好きというアイコの好みを知っていた飛坂は、彼女を日本酒メインのお店に誘う。
そこで飛坂が選ぶ日本酒が「獺祭」なのだが、いや「獺祭」は文句なく素晴らしいお酒ではあるが、それ故、日本酒に明るくない人でも知っているくらい有名なお酒で、「いかにも詳しそうにお店に誘った割には、それかい!」とその「薄っぺらさ」にツッコミを入れたくもなる。
実際アイコも一瞬絶句するのだが、それはたぶん「自分のことを良く知らないから、定番からお勧めしたのだろう」と思い込むことで気を取り直したのではないか。

もうひとつ。
付き合いが深くなっても飛坂はアイコのことを「アイコさん」と呼んでいて、本当はアイコに気を許していないのではないかということを示唆させるのだが、それが確信に変わるのは何気ない一言で、それは食事中のテーブルに台本を置いた飛坂にアイコが「台本汚れるよ」と注意した後の飛坂の言葉だ。
「すみません」
口が上手い飛坂が放った無意識の何気ない言葉だからこそ、本心が露わになってしまったのだが、その時はまだ幸せの渦中にいたアイコはきっと気づかなかったことだろう。

それら飛坂の「薄っぺらさ」にアイコは気づかなかったかもしれないが、"共感者"ではなく"共有者"である観客は気づいていた。
というか、気づくように作られているというところが、本作が誠実に作られている証拠でもあるのだが、だからこそ観客にはアイコが気に留めない(留められない)ところで、彼女が飛坂によって辛い目に遭わされていることがわかってしまう。そして、観客はそれを"共有"してしまうのである。

そのことは、原作者も指摘している。

「普通なら、見たくないし、見向きもせずに通り過ぎてしまうようなことを、飛坂さんは拾って磨き上げて、大事なものだって信じて見せている」
私はその台詞に触れたとき、それはこの映画のことではないか、と思った。

島本理生寄稿文

本作が丁寧に誠実につくられているのは、数々"共有"してきた苦悩によって実はアイコが磨かれていたということが、クライマックスの潔い決断で"共有"できるところにある。
だからこそラストシーン、夕焼けの屋上でのアイコの崇高さに"共有者"も希望を得て、幸せな気分で劇場を後にすることができるのである。


メモ

映画『よだかの片想い』
2022年9月21日。@新宿武蔵野館

この劇場は水曜日がサービスデーで、その効果もあったのか5割弱の入り。平日夜としては結構な入りだ。

色々書きたいことはあるのだが、とりあえず、男性俳優と監督に触れておく。

男性俳優としては、何と言っても飛坂役の中島歩が出色である。
イケメンで背が高くて声も良い……なのに(だから?)、クズ。
しかも、フィクションとしてカリカチュアされたクズじゃなくて、普通にいそうなクズ。
『愛なのに』(城定秀夫監督・今泉力哉脚本、2022年)を始めとして、もはや彼の当たり役なのかもしれないが、「普通にいそうなクズ」というリアリティーを持ちながら、それが生々しくなく演じられるというのは今の若手男性俳優の中で稀有な存在だろう(生々しくないのは、たぶん、イケメンでも今どきの顔じゃなくて「大正浪漫(個人的には太宰治)的」古風な顔立ちだからではないかと思うのだが)。

それからもう一人。アイコと同じ研究室にいる原田役の青木柚。
夜の研究室での告白シーンは秀逸だった(結構感動した)。
あんなことをサラッと言って、それが違和感なく成立しているってすごいと思う。

本作が、「頬にアザがある」アイコを普通の女性として誠実に描いているのは、先に挙げた原作者の想いを受けているのもあるだろうが、やはり、城定の脚本をベースにしながらも松井の気持ちを丁寧に掬い上げて演出した安川監督の想いが大きいのではないか。
15人の新進女性監督が撮った短編オムニバス映画『21世紀の女の子』(企画・プロデュース 山戸結希、2019年)で「ミューズ」を監督した安川は、パンフレットにこう書いているが、その想いは本作でも貫かれている。

女性を「女性」ではなく人間としてフィクションで描くことは難しく、簡単に記号になってしまう。でも、今を生きる作り手がそのことをサボり続ければ、物語はすぐに古臭いものになって、映画などそのうち誰も必要としなくなるかもしれない。人の魅力は美しさだけではないはずだ。男性が創り出した幻想に自分を作り変えていく人がいるならば、そうした抑圧を変えていけるのもまた、フィクションの力だと信じている。

『21世紀の女の子』パンフレット

おまけ

本作が、数多ありがちな「伝わりやすいコンプレックス」を過剰に強調した作品と決定的に違うのは、ヒロインが「頬にアザ」という特異点をコンプレックスにしていなかったことだ。
ヒロインは、小学生の時にクラスメイトにからかわれたことについて、むしろ「注目されて嬉しかった」と感じ、逆に「そんな酷いことを言うな!」と叱った教師の「酷い」という言葉に傷つき、「自分のアザは酷いことなんだ」とコンプレックスになったと言う。
普通に何気なく言った(言われた)言葉に傷つくということは誰にでもあることで、これが(あまり好きではないので使いたくない言葉だが)「トラウマ」になることもあるし、実際、アイコは「トラウマになった」と言う。
本作は特に、「正論/正義」として使われた言葉に傷つくという点において、意外と気づかないが、気づかないが故に、日常生活で当たり前のように誰かと話している当事者(=世界中の人)の一人として結構深刻な問題なのではないかと考えさせられた。
それとは別に、身体的なことやジェンダーに関することで傷つくこともあって、ふと思い出したのは『櫻の園』(白泉社、1986年)という吉田秋生あきみのマンガで、女子高に通う志水由布子が小学生の頃、同級生の男子に生理をからかわれた(『ハンカチでくるんであったの ひっぱり出されて みんなの前で「志水 これなんだよ!」って』)と話す場面である。
『やなガキ!』と返す杉山に志水はこう返す。

だから あたし 一生 許さないの
彼がこれから どんなりっぱな 人間になろうと
あたしにとっては あの時のまま
ナプキンふりまわしてた あの姿のままよ
子供の時のことだっていう言い分も 聞いてやらないの
生涯 恨んでやるわ
あの時のことは 決して忘れない

吉田秋生『櫻の園』

アイコは初めて飛坂の部屋で一緒に朝を迎えた時、自身のトラウマを『初めて人に話した』と言う。アイコも志水同様『生涯 恨んでやるわ』という気持ちがどこかにあったから人に言えなかったのだろうし、それほどのトラウマを「初めて」話してしまうほどに、飛坂を愛し、心を開いたということなのだろう。


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