映画『幕が下りたら会いましょう』

映画『幕が下りたら会いましょう』(前田聖来監督、2021年。以下、本作)を観て、松井玲奈演じる主人公・斎藤麻奈美がラーメンを啜るラストシーンに希望を見出して心がジーンとし、満足して映画館を出た。

だが、冷静に考えると、いささか唐突というか、(ラストシーンの提出の仕方も含め)作為的な感じのラストシーンであり、そう感じる理由は、映画中に抱いた違和感にあるように思えた。

その違和感を考察する前に、パンフレットから概要を抜粋しておく(文章に違和感があるが全て原文ママ)。

実家の美容室を手伝いつつ、なかずとばずな劇団「劇団 50%」を主催していた斎藤麻奈美はある日、東京で働いていた妹・尚(筧美和子)が死亡したという知らせが入る。(略)
劇作家として成功するために頑張ってはいるが、過去に過ちから逃れたままで、本当の自分を見失ってしまっている麻奈美だったが、妹の死をきっかけに、過去と向き合う事になる。それは明るく天真爛漫に見えた妹の尚が抱えていた孤独や、母が秘密にしてきた嘘などが明らかとなる…。

パンフレットより抜粋

家庭の問題を縦軸、劇団の存続や劇団員-特に、幼馴染の親友であり劇団の看板女優でもある水淵早苗(日高七海)-との関係を横軸に物語が展開する。
『過去に過ち』とはもちろん尚と演劇に関することで、これが物語の縦軸・横軸を貫く対角線・主軸となっており、通常であれば『過ち』解決が物語の目的となるはずである

ラストシーンの唐突感は、その時点においてなお「本質的に何も解決されていなかった」ことにある。


「向き合わない」主人公

本質的に何も解決されていない」理由は、主人公・麻奈美が、誰とも何とも「向き合っていない」ことにある。
本作、意図的としか思えないほど徹底的に、麻奈美が誰かや何かと「面と向かう」ことを避けている。

冒頭、尚が東京で暮らすため家を出るシーン。麻奈美と尚は、美容室の鏡越しに話をする。
母(しゅはまはるみ)に声を掛ける時も、『母が秘密にしてきた嘘』を問い質す時も、麻奈美は母の正面に立たない。

幼馴染の早苗についても同様で、2人が話すシーンは、麻奈美が背負われていたり横並びだったりで対面になることがなく、喧嘩の和解も面と向かってはしない(パンフレットでも早苗役の日高七海が、『最終盤のペンキを塗るシーンで初めて麻奈美と目を合わせる』と言っている)。
早苗は、麻奈美の『過去に過ち』を知っていることをほのめかしたりする程度で、決して麻奈美を精神的・肉体的に追い詰めるような行為はしない。

また、劇団と無関係の人々の思惑が絡んだ芝居を上演しようとして劇団が崩壊しかけた時、麻奈美は上演中止を決断し、劇団員に謝って劇団を元に戻すのだが、それらはセリフで示唆されるだけで、実際の中止に向けての行動や劇団員への謝罪のシーンは一切ない。
だから観客には、麻奈美が、挫折や屈辱といった「痛み」を経験したことが伝わらない。

つまり、「麻奈美の成長」が観客から理解できる描写がない。

外見上、麻奈美も劇団も、物語の始まりと終わりで何も変わっておらず、だから、「本質的に何も解決されていない」。

にも関わらず、唐突にでも、あのラストシーンが提出できたのは、本作の目的である『過ち』が解決された-麻奈美が(心の中に存在する尚との和解し)尚に赦された-ように見えたからだ。
だが、「ように見えた」シーンこそが違和感を生む最大の原因となる。
何故なら、ここでも見事に「面と向かう」ことを避けているからだ。

これだと「麻奈美が尚を赦した」ようにも見え、それで確かに尚は成仏できるかもしれないが、それは物語の目的ではない。
「尚が麻奈美を赦した」とするためには、赦しを乞う麻奈美を尚が受け入れ(=抱きしめ)なければならなかったのではないか。

つまり、麻奈美は自分の『過ち』にも「面と向かう」ことなく、尚が自分のイメージの中にしかないことを利用して、都合よく「自分で自分を赦して」しまった

そして本作自体、それを作為的に「過ちが解決した」と解釈して、強引にラストシーンまで突っ走ってしまった。


「逃げない」をどう捉えるか?

と、ここまで考察したうえで、パンフレットのあらすじの続きを引用する。

メガフォンをとったのは、元・役者であり現在は会社員として働きながら映画監督としての夢も果たした新進気鋭の監督・前田聖来。どこか歪んだ今の時代に不器用にもまっすぐ生きる女性を描き出した。言葉に出来ない主人公の心の機微を丁寧に表現し、静かな流れながら、過去や自分から逃げることなく強く生きる姿に心揺さぶられる力強い作品が誕生した-。

パンフレットより

この紹介文、全く間違っていない。
それは正しいという意味ではなく、文章自体が曖昧過ぎて、どうとでもとれるという意味で「(解釈によっては)間違っていない」。

確かに、麻奈美は『過去や自分から逃げることな』い。
だが物語としては、『言葉にできない』からこそ、『どこか歪んだ今の時代に』『まっすぐに生きる』ためには、「逃げない」だけではなく、ちゃんと「対峙」しなければならないのではないか?

『過去や自分から』「逃げない」ことと「対峙する」ことは決定的に違う。
ことごとく「面と向かう」ことを避けてきた麻奈美は、「痛み」が観客に伝わらない構成と相まって、問題と「対峙」しているように見えない
だから、「麻奈美が成長した」ようにも見えない

にも係わらず、「麻奈美の中で何かが変化した」ことを示唆するような意味ありげなラストシーンが唐突に提出される。
映画を観た時の私は、それを「希望」と受け取ったが、同時に真逆の「絶望」とも受け取れる。

それを示唆するのが、パンフレットに掲載された早苗役の日高のコメントである(本人にその意図は無いだろうが)。

早苗は多分結局、劇団を辞めるんだろうな。そして何度もあの劇団の日々を鮮明に思い出すんだろうな。

パンフレットより

どう映画を解釈するかは、人それぞれ自由なので…と、今は、曖昧にしておく。


「演劇」から考えるラストシーン

本作で商業映画デビューした前田聖来監督は元俳優らしい。
その監督が演劇を題材にしながらも、麻奈美を対象と「面と向かわず」それらとのコミュニケーションが希薄になっているように描いているのは気になる。

「演劇」について、日本劇作家協会会長も務めた劇作家・演出家の鴻上尚史氏は、著書『演劇入門 生きることは演じること』(集英社新書)についてのインタビューでこう発言している。

生身の人間がぶつかり合い、叫び合う。演劇には良くも悪くもアナログ的なライブのカオスがあって、人は今もそれを求めているのではないか

朝日新聞 2021年7月21日朝刊

コロナ禍での演劇人のアンケートを収録した、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館監修/後藤隆基編『ロスト・イン・パンデミック 失われた演劇と新たな表現の地平』(春陽堂書店、2021年)の中で、劇作家・演出家・俳優のシライケイタ氏はこうコメントしている。

演劇は、「他者を理解しようと努力する行為」であり「他者と関わろうとする行為」である。つまり、演劇人にとって他者とのコミュニケーションは専門分野と言っていい。

「ロスト・イン・パンデミック」Ⅲ章「現場からの声」

だから私は、「面と向かわない」つまり「生身の人間とぶつかり合わない」「他者を理解しようとしない、関わろうとしない」麻奈美に対して違和感を抱き、長々本稿を書いているのである。

前出の鴻上氏の記事から再度引用する。

芸術は「あなたの人生はそれでいいのか?」と挑発し、芸能は「あなたの人生はそれでいいのですよ」と肯定するものだとは、著者(鴻上氏)の見解である。

朝日新聞


本作、ある意味「エピソード集」であり、各エピソードで麻奈美が母親・早苗・劇団員らとどうコミュニケートし、関係性がどう変化していったかということは掘り下げられていない。
というか、麻奈美は尚とコミュニケート(過ちを謝罪)することしか考えておらず、それが叶ったこと劇中で示唆される。

その結果、ラストシーンにおいて『「あなたの人生はそれでいいのですよ」と肯定』された(つまり私が「希望」を見出した)のは、涙を流しながらラーメンを啜る麻奈美だけになってしまったのではないか。

彼女の後ろに、肯定されなかった早苗や劇団員が、(早苗役の日高が示唆したように)麻奈美の前から去っていく予兆が見える気がする…


ラーメンって注文しただけじゃ?

そう思った人はいないだろうか?
私が観た回でも数人がエンドロール中に退場してしまったのだが、劇場が明るくなるまで映画は続いているのです(そして、本作はこのシーンがクライマックスなのです)。


余談1

麻奈美が面と向かわない理由を「コロナ禍での撮影」に求めることはできるかもしれないが、であれば、時代設定を2019年(本作冒頭で元号が変わることが示唆されている)ではなく、2020年にしたうえ相応の人物/事象設定にするべきだったと思う。

余談2

『どこか歪んだ今の時代』を描くのであれば、パンフレットの最後に収録された監督自身による「オリジナルショートストーリー」は余計だった気がする。
「完全なる悪人」を登場させたくなかったのかもしれないが、「パワハラ」と言い切っておかないと、「尚の死因」という、軸とは違うところに焦点が当たって、本作自体が揺らいでしまう。

というか、あのやりとりが本作の「裏設定」としてあるのだとしたら、歪んでいるのは「時代」ではなく、単に「尚と権田の関係」だけである。
麻奈美は、会社に不満を抱えていた三橋に利用・翻弄されただけで、最初から「逃げるべき過去」なんてなかったことになるのでは…
「オリジナルショートストーリー」を読んだ私は、麻奈美が不憫に思えて仕方がなかった。


(2021年12月1日、映画の日。@新宿武蔵野館)

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