舞台『いつぞやは』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

舞台『いつぞやは』(加藤拓也作・演出。以下、本作)を観るために三軒茶屋に向かう電車内で、作家・小島信夫氏の『小説作法』(中公文庫、2023年)を読んでいた。
巻末の「編集付記」には『著者による小説論・創作論を独自に編んだものです。中公文庫オリジナル』とある。
小説家・保坂和志氏の解説には『前半がこれまで単行本に収録された文章、後半が未収録の語りを集めたもの』とあり、自身は『後半の語りが断然面白い』と記している。

シアタートラムに入ると、すでに白色の照明が全面に当たっている舞台は、私に表現力がなくて恐縮だが、「足湯」を舞台と客席の境界で半分に切ったような段差があるセットに四角いテーブルが1脚、舞台の左右・奥は高い壁で囲われていて、(開演するまでは)ドアも何もない閉鎖空間で、私は何だか得体の知れない気持ち悪さを覚えた。

ここで一応、パンフレットに『ものがたり』として記載されたあらすじを引用しておく。なお、俳優名の追記と改行は私が行ったことを予め断っておく。

劇団活動をしている松坂(橋本あつし)が、ある男の思い出を語っている。
それは、かつて劇団仲間だった一戸いちのえ(平原テツ)の物語だ。
数年前、ふらりと松坂の芝居を観にやってきた一戸は、健康上の理由から故郷の青森に帰ることにしたと言う。
淡々と語られる一戸の近況報告をきっかけに昔の劇団仲間が集まることになった。
その仲間、坂本(今井隆文)、小久保(豊田エリー)、大泉(夏帆)たちは、それぞれの悩みや現実を抱えながらそれぞれの人生を歩んでいる。
今も演劇を続ける者、演劇からは離れている者。
過去と現在を繋ぐのは「演劇」というキーワードだ。
そして……故郷に帰った一戸は、シングルマザーとなっていた同級生の真奈美(鈴木杏)と再会し……

ところで何故、読んでいた本のことを書いたかというと、本作冒頭で客席後方から現れた松坂が、通路側の観客に飴(ちゃん)を配りながら舞台まで歩いていて、飴(ちゃん)を配るのは「大阪出身だから」(だから一応、(ちゃん)と付けてみたわけだが)という台詞を聞いて、直前まで読んでいた「いかに宇野浩二が語ったかを私が語る」という文章を想起したからだ。
宇野浩二という作家は私が生まれる前の昭和41(1966)年に亡くなっていて、というか、私は彼の作品どころか名前も知らなかったので、小島氏が語った内容については全くわからなかったのだが、だから却ってキーワードだけが記憶に残ることになった、と言い訳して都合良く引用する。

僕(小島)は前に作家評伝を書いたときに、(宇野の作品が)大阪落語の語り口に似ているということを書きましたけどね。(略)なんというのか、気の配り方ですね、大阪の人の気の配り方、他の人は何を考えているのか、どういう偏った夢を持っているかとか、みんな人間てのは夢を持ってますから、それをよく大阪人はわかっている。そういう理解はだれでも大阪の人にはあるかもしれん。ですけども理解を示すことが小説の方法みたいになっている作家はあまりないんですよ。方法になってくると、とたんにややこしい小説になるし、ややこしいといっても読みにくいというのじゃないですけども、そういう要素は大阪の人の中にあるんだろうと思うけども、そこまでは普通いかないわけですね。
今朝、ある人から宇野浩二は口語風ですよっていうことをいわれて、僕もそう思った。

と、今、「大阪」をキーワードにしてその時思い浮かべた箇所を引用していて、これの「小説」を「芝居」にしてみれば、大阪出身の加藤拓也のことだと(本稿の読者が)誤読できるのではと、その偶然というかこじつけに自分で驚いた。

ところで、先に書いたようにこの本の解説は保坂和志氏によるものだが、そこにこんなことが書いてある。

(略)文章は明晰に一度記述されれば伝わるというものではない。
文章に書くこと、語ること、というのは内面にある形のない、思い・記憶・知識……メロディーのようなもの……リズムのようなもの……それらに、そのつど形を与えるべく、語順もそのつどいじっては、意味を作り出すという、じつは非常に困難な作業なのである(略)

もちろんこれは小島信夫氏の小説について書いたものであるが、先と同様、本作のものとして誤読できる。

本作では、一つのエピソードが劇中劇や回想(或いは、追想かもしれない)らしき(というのも、時間軸を交錯させることで曖昧にしているからだが)形で語り(演じ)直される。
その語り(演じ)直しは、劇中劇や回想(追想)であるため、つまり『語順もそのつどいじっては、(新たな)意味を作り出す』ことにつながる。

本作冒頭、飴(ちゃん)を配り終えた松坂は、観客に向かって『ある男(=一戸)の思い出を語』るのだが(ここで我々観客は、本作を観ている観客なのか、本作で演じられる劇中劇を観ている観客なのか、またも曖昧にされている)、それは要するに「亡くなった友人のSNSのアカウントがそのまま残っている、その意味のわからなさ(或いは不気味さ)」を語っている。
それを聞きながら私は、以前「もう、人間は死ねないのではないか」と考えたことを思い出した。

それは、「人間は2度死ぬ。1度目は肉体が死んだ時、2度目は生者から忘れられた時。人々から忘れられた時が、本当の死」というのを、どこかで聞きかじったことで考えたのだが、それはつまり、舞台上から我々に語る松坂の困惑と同じだ(現に彼は、「まだ生きてるんじゃないか、と思ってしまう」と吐露する)。
まぁ私が「死ねない」というのは、「デジタルタトゥー」という意味で、どんなに削除しても、まだどこかのサーバー(=記憶装置)には、死んだ人の記録(発言だったり写真だったり)が残っている可能性があり、可能性がある限り(何かのきっかけで、その記録が生者にアクセスされてしまう可能性を排除できない、という意味において)「死ねない」ということだったりするのだが(さらに言えば、死んだ本人が記録したものでない、たとえば、友人知人が記録・投稿した(或いは、これからする)ものとか、見ず知らずの人の写真にたまたま写り込んでしまったとか、さらにそれらが不特定多数の人によって拡散されていたりとか、それは削除はほぼ不可能なのではないか。たとえモザイク処理されたとしても、それはその人として記録されていることに変わりがない……のではないか)。

本作は口語調で書かれていて、しかも複数の人物のセリフが重なったり、「え?」「ん?」みたいなやり取りがあったりと、一見「現代口語演劇」にも思えるが、パンフレット上で是枝裕和監督と対談した加藤が明確に否定している。

平田さんとはアプローチが真逆だと僕は考えていて。恐らく平田さんは、音やイントネーションが自分の理想通りならば演技は成立しているという考え方じゃないですか。でも僕は発語周りに重きを置かず、「役の心情を俳優自身が本当に思えているかどうか」が大事だし、そのために俳優には、複数の感情のlineを同時に走らせて気を逸らせ、矛盾を抱えながら演じるような状態をつくろうとしている。いくつもの感情や矛盾に引き裂かれながら演じることで、仕草やニュアンス、タイミングに段々嘘がなくなり、その先に初めて僕が「生きている人間だ」と思えるキャラクターが立ち上がる。だから口語的な台詞で戯曲を書いていても、芝居の質はだいぶ違うと思っています。

いや、これは観劇後、パンフレットも読んだ後に自宅で本稿を書いている今、都合良く思ったことで、実際は松坂のモノローグを観ながら、チェルフィッチュの『三月の5日間』を思い出していた。とはいえ、私は『三月の5日間』を生はおろかフルで観た(見た)ことがなく、その制作風景を撮影したドキュメンタリー映画『想像』(太田信吾監督、2021年)を見ただけだが。
だから、私は「現代口語演劇」ではなく「超現代口語演劇」と思ったのだったが、しかし、それはすぐに打ち消された。チェルフィッチュとは俳優の「身体性」が違うと気づいたからだ。後者の身体性は恐らく「(言葉やキャラクターの)意味からの分離」を目的としているが、前者は加藤が言うように『「生きている人間だ」と思えるキャラクターが立ち上がる』ことを目的としている。

いや、これも実際に思ったことと違う。
松坂、いや、橋本淳が観客の方を向いてモノローグを喋っている間、その時まだ豊田エリーは舞台にいなかったが、彼女がキャストに含まれていることは当然知っていた、だから、『たむらさん』(2020年上演)を思い出したのだ。これは、『橋本淳と豊田エリーの「二人芝居」だが、50分の上演時間の前半(?)40分、延々と橋本のモノローグが続く』作品で、そこで私は「あ、あれは加藤拓也の作品だった」と気づいたのだった。

そうやって観劇した後、シアタートラムを出て三軒茶屋の駅に向かう間、私は本作は「ある意味でリアル」だと思っていたのだった。
そのリアルさとは、本作を、先に書いた『回想(追想)』として考えると、ということだ。
演劇(物語)が「創作」である以上、そこに「脈絡」が生じてしまう、というか観客側が「脈絡」を求めてしまう。そうしないと不安だからだ。特に今のような「コスパ」「タイパ」の観点でみれば、「脈絡がわからないものはストーリーとして語れない」≒「意味がわからない」=「ダメ」となってしまう(だろう)。
だから、本作の感想やレビューが、この"note"やブログ・SNSに、様々書き込まれ(てい)るだろうが、それらのほとんどが「ストーリー」或いは「作品が内包する意味/主張」に言及する(だろう)。そして或いは、「わかる/わからない」という批評(批判)が書き込まれる(だろう)。

ここで先の『小説作法』の保坂氏の解説に戻ると、所収の「小説とは何かー私の『最終講義』」の中で、小島氏が週1回の大学の講義のため前日に『ノートをとっている』ことに触れる。

そのあとに、「ぼくはノートをとっているといっても、それは脈絡がつきすぎていて、ぼくが語りはじめると、ぼくのノートそのものの方が読みちがえしているように見えてくる」と言っているのは、何かを考えるということの全体が失語症的な水面下の難事業なんだから、脈絡はそんなに簡単についていてはおかしい。
このように、脈絡が、つきすぎることを明確に否定したのは、小島信夫が初めてではないか?(略)ほとんどの人は、脈絡を頼りにしないでいったい何を頼りに考えればいいんだと思うだろう。それに対して、次の段落で一つの解答が書いてある。
「人間の頭というものは、語るつもりで読むせいか、つまり、選び出す操作があるために、当然、読み落とされてしまう。」
(略)人は世界を(もっと素朴に、眼前にあるものを)そのまま受け止めることはできない。いつも何かのフィルターを使って自分の理解可能なものに変形させる。

先の私の「現代口語演劇」に関することと同じように、人間が何か「回想(或いは、本作で云えば追想でもいいが)」しているとき、「脈絡」はない。
『何かを考える(回想・追想を含む)ということの全体が失語症的な水面下の難事業なんだから、脈絡はそんなに簡単についていてはおかしい』からだ。
回想(追想)している間、それが「思い違い」とも考えないし、そこから発想や時間軸の飛躍も(意識/無意識・正誤に拘わらず)頻繁に起こる。
本作は「そういうモノ」ではないだろうか?

つまり、ラストシーンは「松坂の回想(追想)だった」ということだ(『いつぞやは』という言葉は、過去に向けられていることが察せられるほかは、時間軸も脈絡も持たない)。
或いは、原稿用紙に台詞だけを書きつけている(ように見える)松坂から、本作は(『いつぞやは』という芝居を内包する)「メタフィクション」とも取れる。

私も『「ストーリー」或いは「作品が内包する意味/主張」』に言及してしまった。

別にいいのだ。
『人は世界を(もっと素朴に、眼前にあるものを)そのまま受け止めることはできない。いつも何かのフィルターを使って自分の理解可能なものに変形させる』のだから。

メモ

舞台『いつぞやは』
2023年9月5日。@シアタートラム

いや、劇場を出た私は、「回想(追想)」ではなく、「後悔」と考えたのではなかったか。
もう何年も前の夜、その時すでに定年退職されていた会社の大先輩から突然「ガンで余命幾ばくもないから、俺の知っている人たちに知らせてくれないか」と電話が掛かってきた。
夜で、しかも突然の電話だったこともあって、状況が全く理解できず、私はどうしてよいのか(というか、何故私なのか)戸惑った、というより途方に暮れた。
そこから思いつく人に連絡をとって翌日お見舞いに行った。声を掛けた人からまた別の人につながり、結果的に多くの人が見舞ったと聞いた。彼は、大勢の人が見舞ってくれたこと、それらの人にお別れが言えたことに満足し(と私は思うことにしている)、数日後に旅立った。葬儀にも多くの人が参列した。
しかし、と本作を観ながら思い出していた。
電話口の私は、一戸の口から出た言葉に相応しい(とされる)反応が取れなかった(ように見える)松坂と同じではなかったか。
一戸の頼みと同じように、私もまた頼み事に応えることができたのか。
彼が亡くなってから数年間、私は事あるごとに、「もっとちゃんとできなかったのか。もっとできることがあったのではないか」と後悔していた。
いや、これは「脈絡」がつきすぎている。


この記事が参加している募集

#舞台感想

5,924件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?