舞台『もはやしずか』

舞台『もはやしずか』(加藤拓也作・演出。以下、本作)には、明確なストーリー展開も、はっきりとした結末も、正解も、カタルシスもない。
かと言って、モヤモヤや消化不良感を抱えたまま劇場を出ることもない。
あるのはただ、「自分ならどうするだろう?」という、自身への問いかけである。

以前、本作の作演出を担う加藤拓也氏が主宰する「劇団た組」の公演『ぽに』についての拙稿で、私はこう書いた。

円形センターステージの四方に観客席が設けられた劇場で、観客は「物語を観る」ではなく、「普段見られないが現実的にどこかで行なわれている行為を観察する」ことになる。

本作は、四方ではなく両側からではあるが、やはり『普段見られないが現実的にどこかで行なわれている行為を観察する』。
しかし、『ぽに』はデートDVなどを扱いながらもどこかファンタジーめいた作りだったのに対し、本作はまさに『現実的にどこかで行われている行為』をそのまま見せられることになる。

だから、本作には冒頭に書いたように『明確なストーリー展開も、はっきりとした結末も、正解も、カタルシスもない』。

康二(橋本淳)と麻衣(黒木華)は長い期間の不妊に悩んでいる。
やがて治療を経て授かるが、出生前診断によって、生まれてくる子供が障がいを持っている可能性を示される。
康二は過去のとある経験から出産に反対するが、その事実を知らない麻衣はその反対を押し切り出産を決意し……

上記は、パンフレットに掲載された「あらすじ」をそのまま(演者名は引用者追記)転載したものだが、約2時間の本作のストーリーの説明はこれで充分だ。

不妊治療、精子提供、出生前診断、障がいを持った子の育児、人の痛みを理解せずひたすら自身の「正義」「正論」を振りかざす人……
本作が扱うテーマは重いが、「救いがない」というのとは明らかに違う。

『生まれてくる子供が障がいを持っている可能性を示され』た夫婦は、ひたすら逡巡・葛藤する。
だが、自分の気持ちを正面から正直にぶつけ合うことはない。
特に『過去のとある経験』を持つ康二は、言いたいことをひたすら飲み込みつづけ、それが麻衣の苛立ちを加速させる。

一切の説明セリフがない会話劇の本作だが、テーマがテーマだけに慎重に丁寧に作られていて、説明がないことによって却って康二の葛藤が強く伝わってくる仕組みにもなっている。

観客は、康二・麻衣の夫婦の葛藤と、康二とともに『過去のとある経験』をした彼の両親(平原テツ・安達祐実)の葛藤という両面を「観察」し続ける。
この両親が、ともすれば「自分の意見をはっきり言わないズルイ男」と映りかねない康二が、実は「言わないのではなく言えない」のだと理解するに足りる説得力を持たせている(本作冒頭の夫婦喧嘩と、中盤の父親が包丁を振り回すシーンは、観客全員が胸を締め付けられたのではないか)。

約2時間に渡って「観察」してきた康二と麻衣、それぞれの言動や決断だけでなく、「観察」後に二人がどう決断し、どう生きて行こうが、我々観客は二人を咎めることなどできない。

「観察」を通して我々は、この『現実的にどこかで行われている行為』には、「善/悪」「正解/不正解」「賛成/反対」といった明確な線引きや、誰もが納得する「普遍解」がない、という事実を確かに知ってしまったのだから。

劇場を出た観客は、だから自ずと「自分ならどうするだろう?」と考えることになる。
その答えは、一人一人が自分で考えて決断するしかない。
そうして出した答えは、たとえ多くの人にとって「不正解」だったとしても、自身にとっては「正解」だと、そう納得して生きていくしかない。
そして、それがどんな決断であろうと、他人がそれを非難することなどできない。

ただ楽しいだけじゃない、美しいだけじゃない、リフレッシュできるでもなく、あるいは難解で知恵熱出そうな芝居でもない。
たまには『現実的にどこかで行われている行為』を知り、芝居を引き受けて「自分ならどうするだろう?」と考えるような作品を観るのも良い。
それこそが、自分が変わるかもしれない体験となる。


メモ

舞台『ひとりしずか』
2022年4月17日。@シアタートラム

とは言え、ただひたすら重いだけの芝居ではない。
現実と同じで、逡巡や葛藤の中でも日常の幸せや笑いは存在している。
また、芝居として明確な「息抜き」もちゃんと用意されている(それもただの「にぎやかし」ではなく、時間の経過と現状を観客に説明する役割を担うと同時に、「この後、状況が変わりますから、今一息吐いておいてくださいね」というメッセージでもある。だから、シチュエーション的には「芝居の作りとしてベタ」)。



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