大人に刺さる映画~映画『さとにきたらええやん』~

ドキュメンタリー映画『さとにきたらええやん』(重江良樹監督。以下、本作)を2015年の公開時に観たとき、故・灰谷健次郎氏の「三ちゃんかえしてんか」(『海になみだはいらない』(1986年、新潮文庫)所収)という物語を思い出した。
主人公・和人の父親は大阪のドヤ街で立ち飲み屋を営んでいる。彼らが「酔っぱらい屋さん」と呼ぶ飲み客は、ガラが悪く暴力沙汰になることも多い。
そんな中、和人は級友の波川君に誘われてドヤ街にある「子ども館」を訪れる。そこは、地域の子どもだけでなく、「酔っぱらい屋さん」を含むドヤの大人たちまでがいて、子どもも大人も対等な立場で過ごしていた。
その物語で、大人が子どもに工作を教える場面があって、うまく出来ない子どものことを「酔っぱらい屋さん」が笑うのだ。

「おっさん、わらうな」
子ども館の子が、おっさんをしかった。
「だれでもはじめから、うまいことはいかんやろ」
「そらそや」
酔っぱらい屋さんはすなおにいった。
しんまいたちは目を丸くした。子どもはおとなにしかられるものと決めていると、ここではあてがはずれるようである。

「三ちゃんかえしてんか」

本作は、大阪市西成区釜ヶ崎にある子どもたちの"憩いの場"「こどもの里」、通称"さと"を舞台としたドキュメンタリー映画だが、まさに大人と子どもが対等に暮らしていた。
釜ヶ崎には地域の人もホームレスの人も一緒になって参加する行事が多い。
運動会もその一つで、大人対子どもの綱引きで負けた子どもが「大人げないぞ!」と抗議するシーンは、先の物語に通じる。
(まずは、この予告編をご覧いただきたい)

さて、本作、2022年夏に重江監督の最新作『ゆめパのじかん』公開記念として2週間の限定アンコール上映が東京・ポレポレ東中野で行われていて、私は同じ日に『ゆめパ~』に続けて本作を観た。

『ゆめパ~』が親子で楽しみながら何かを考えることが出来る作品であるのに対し、本作は、同じような子どもを扱っているにも関わらず、子どもよりむしろ大人に刺さる。「羨ましい」という気持ちは、『ゆめパ~』は憧れに近いが、本作は、もっともっと現実的で切実だ。

それは、"さと"のモットーが象徴している。
「誰でも利用できます。こどもたちの遊びの場です。学習の場です。教育相談、何でもききます。」
ここまでは、一般的な子どものための施設と変わらない。
ここからが"さと"の本質である。

お母さん、お父さんの休息の場です。
生活相談、何でも受け付けます。
いつでも宿泊できます。
緊急に子どもが一人ぼっちになったら…
親の暴力にあったら…
家がいやになったら…
親子で泊まるところがなかったら…
土・日・祝もあいてます
利用料はいりません

(一部順序を入れ替えています)

つまり、子どもの問題は、大人の問題に直結しているということだ。

実際、大人の問題の方が痛切で切実だ。
ふとしたことで子どもに暴力を振るってしまいそうになる衝動と葛藤するシングルマザーは、自身も同じような境遇で育っている。
"さと"に通う中学男子は家で暴力を振るう。軽度の知的障害が原因とも考えられるが、それ以上に圧倒的原因なのは、彼の父親自身が暴力により公的機関から家族への接触を禁じられているという点にあろう。
"さと"で保護している女子高校生の母親は、内緒で娘の貯金通帳に手を出す。
それでも子どもたちは健気に、そんな親たちの愛情を求めている……

そんな姿を、「映画だから」「釜ヶ崎の話だから」と他人事で観られる大人がいるだろうか?
スクリーンの中で葛藤する親や子どもたちは、自分自身かもしれないし、隣に住む家族なのかもしれない。

本作を観ながら思った。
釜ヶ崎地区が「荒い」というイメージを持たれているのは、大人も子どもも自身の葛藤を内に秘めず、本気で外にぶつけるからではないのか?
何故ぶつけるのかと言えば、それをちゃんと真正面から受け止めてくれる人がいるからではないか?

「受け入れる」ではなく、「受け止める」。
だから、ぶつけられた思いに本気で応える。
たとえば、先の男子中学生の場合、"さと"のスタッフが彼の家まで行き、(父親を除く)家族全員で会議を開く。
育児に悩む親の話を真剣に親身になって聞く。

きっと、そういった土壌が培われたのは、釜ヶ崎という土地柄と歴史によるものだろう。
"ドヤ"の人たちやホームレスの人たちは、社会から軽蔑されたり悪意を持たれりすることが多いかもしれないが、それでも、たとえ数えられるほど少ないとしても、親身になって受け止めてくれる人たち(ボランティアや公的機関の人たちのほか、"さと"の子どもだって冬の夜にホームレスにカイロを配ったり話を聞いたりしている)がいることを知っている。

大人たちが「羨ましい」と思うのは、"さと"そのものではない。
そうやって受け止めてくれる人たちや環境が「羨ましい」のだ。
釜ヶ崎の荒さは、暴力的な意味合いではない。
人々が自分をさらけ出して本気で生きていこうとすると、必然、荒く見えるのだ。
とはいえ、ちょっと度が過ぎているような気もするので、もう少しソフトでいいから、全国的に釜ヶ崎のような関係性が築き合えたら、自殺・育児や家庭内で起きる悲しい事件が減るような気がする。
切ない現実の中にあって、そんな希望を抱ける、気持ちのいい映画である。


メモ

映画『さとにきたらええやん』
2022年8月6日。@ポレポレ東中野 (『ゆめパのじかん』公開記念 アンコール上映)

先の「三ちゃんかえしてんか」の中で、子ども館でオリジナルのフォークソングを歌う場面が出てくる。
今はフォークソングでなく、SHINGO★西成のヒップホップなのだろう。


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