映画『とべない風船』

日の出や夕暮れといった特別な時間ではなく、日中、ふとした瞬間に青空を見上げたまま暫し動けなくなるときがある。
あの刹那、何を思っているのか。

映画『とべない風船』(宮川博至監督、2023年。以下、本作)で、紐で結ばれた2つの黄色い風船が青空を漂うラストシーンを観ながら、あの刹那、私は感謝と祈りを捧げているのだと気づいた。
同時に、その感謝と祈りはきっと、誰とか何といった具体的なモノではなく、ただ漠然と、青空の上に逝ってしまった人々や、青空の下に存在している者/物たちに捧げているのだろう、とも思った。

本作の舞台は広島県の瀬戸内海に浮かぶとある島で、スクリーンに映る多島美たとうびと呼ばれる、瀬戸内の海や島々が織りなす景色は、とても美しい。

余所よそから来た人たちは、屈託なく言うだろう。
「素敵な島ですね。綺麗な海があって、人々がのんびり暮らしていて」

もちろん、その言葉に他意はなく、心からの素直な気持ちだろう。
わかっている。だから島民も素直に受け取る。

しかし、現実の島には漁業以外に大した産業がなく、その漁業も漁獲量の減少と燃料費の高騰で先行きは暗い。漁師に見切りをつけて島を出ていく者もいる。
さらに島民の気持ちを暗くさせたのが、2018年6~7月にかけて西日本を中心に広範囲で発生した集中豪雨である。

本作は、その豪雨を実際に経験した、広島を拠点にCMディレクターとして活動している宮川監督が、その災害の記憶が風化する前に映画を作らなければと決意して撮った物語だ。

主人公は、島民から見れば「余所者」の男女。
男は、島の女性との結婚を機に島外から移り住み、漁師となった憲二(東出昌大)。彼は、先の豪雨で妻と息子を亡くして以来、住民との関わりを最小限にして暮らしている。
女は、別の場所で教師をしていたが頑張り過ぎて鬱病を患い、定年後に島に移住した元教師の父親(小林薫)のもとに身を寄せた凛子(三浦透子)。父親は妻(原日出子)とともに移住したが、彼女はこの島で亡くなった。

主人公二人が「余所者(他者)」である意味は大きい。
精神科医の宮地尚子氏は、エッセイ集『傷を愛せるか 増補新版』(ちくま文庫、2022年)にこう記している。

トラウマを負った被害者が回復し、自立した生活を取り戻していく際に、「エンパワメント」が重要であるということはよく知られている。「エンパワメント」とは、その人が本来もっている力を思い出し、よみがえらせ、発揮することであって、だれかが外から力を与えることではない。けれども忘れていた力を思い出し、自分をもう一度信じてみるためには、周囲の人びととのつながりが欠かせない。

島という「共同体」の中にいる島民たちは、共同体の個々のつながり(共助)で「エンパワメント」を獲得していく。
しかし、「島」という一つの存在は、内側(島民)のつながりでは「エンパワメント」を獲得できず、「島」の外側(他者)とのつながりを必要とする。
それを担うのが、本当の意味での「余所者」、凛子である。

そして凛子自身も「島という他者」(=共同体)によって「エンパワメント」を獲得する。

これが物語全体の構図だが、しかし、当時でも共同体の一部だったはずの憲二は自身を「余所者」だとして島民たちとのつながりを断ってしまっている(というように物語は進む)。
彼がつながりを断ったのは、「侵入してきた余所者(自分)が(共同体の中にいた)妻と息子を殺した」という自責からだ。
というように進んだ物語は、最終盤のクライマックスで、彼自身が「エンパワメント」を拒否するために、つながりを断ったと明かされる。

私が本作を観たのは2023年1月18日で、その日も28年前の1月17日に起きた阪神淡路大震災についての報道がなされていた。
当時も多くの被災者に起こったのではと思うが、憲二は、正確な意味ではないかもしれないが、一種の「サバイバーズ・ギルト」の状態にあったと言える。

豪雨の日、妻は実父の身を案じて、息子とともに実家へ向かう途中、土砂崩れに巻き込まれた。
一度は「自分が行く」と申し出た憲二だが、「あなたは疲れているのだから休んで」という妻の言葉に甘え、「いってらっしゃい」と、送り出した。
普通であれば直ぐに忘れてしまうほど些細で平凡な日常だったはずの出来事が、生死を分けてしまった。
「豪雨という非常事態だったのに何故、『行くな』或いは『自分が行く』と言わず、日常と同じやりとりをして、すんなり妻を行かせてしまったのか。何故、一緒に行く、と言う息子を止めなかったのか」

あの豪雨を想起させる雨の中、事故現場で憲二は慟哭どうこくしながら繰り返す。
「忘れたくない、忘れたくない」
つまり彼は、「エンパワメント」を獲得することにより妻と息子の存在が過去になってしまうことを、恐れていたのだ。
何故か?
サヨナラも言ってないのに」
いつもの日常が脈絡なく突然途切れてしまったとてつもない理不尽は、どうしても受け入れられない。受け入れてはいけない。

その「サヨナラ」の象徴が、『とべない風船』である。
その風船の色が黄色である意味は、全国民が知っている。
だから私には、ラストシーンでの、青空を漂う紐で結ばれた2つの黄色い風船が、感謝と祈りに見えた。
その風船はきっと、「余所者」としての役割を終えた凛子にも、同じように見えたことだろう。


メモ

映画『とべない風船』
2023年1月18日。@新宿ピカデリー

あの集中豪雨をテーマにした映画としては、2021年公開の『しあわせのマスカット』(吉田秋生あきお監督)がある。
集中豪雨の被害を受けた岡山県のマスカット農家の老夫婦に「エンパワメント」を獲得させたのは、県外からやって来た福本莉子演じる春菜だった。

また、本作は広島県在住の映像作家による作品だが、同様に岡山県在住の映画監督が撮った映画が、2022年公開の『やまぶき』(山崎樹一郎監督)で、私はその感想に(自身が在住している地方都市を撮ることによる)「物語の重心の重さ」と書いた。
「重心の重さ」とは、地方都市にある「その土地から出られない」閉塞感である。

本作はそれを主題としていないため直截的には表現されないが、それでもやはり「物語の重心の重さ」は感じられる。
漁業の先行き不安や子どもの少なさなどもあるが、「重心の重さ」を担っているのは意外にも、凛子を含め島外から来る女性に漏れなくアタックするが、女性たちは漏れなく憲二に好意を寄せてしまうという、コメディリリーフ的存在の潤(笠原秀幸)ではないか。
島内ではイケメン」と自認(誤解?)する彼が積極的に女性にアタックするのは「彼女が欲しい」からだが、しかし、そのために島を出るという発想はない
それはもちろん、コメディリリーフという物語上の要請を受けてのことだが、そう要請された存在だからこそ、「その土地から出られない」という「物語の重心の重さ」が如実に表れているともいえる。

本作に話を戻すと、主役の二人はもちろん、全ての俳優がとにかく素晴らしかった。
先の笠原秀幸氏は、この重い物語の中で、観客が息を抜いて安心できる存在として素晴らしかった。
それ以外の若手陣ももちろんだが、凛子の父役の小林薫氏、憲二の義父役の堀部圭亮氏、漁業組合長役の柿辰丸氏、居酒屋の女将役の浅田美代子氏ら重鎮たちがさすがの存在感だった。



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