「社会の重力」に翻弄される/抗う~映画『やまぶき』~(第4回大島渚賞受賞)

岡山県真庭市。実在するこの地方都市には採石場があり、ヴェトナム人など外国人も働いている。
映画『やまぶき』(山崎樹一郎脚本・監督、2022年。以下、本作)の主人公である韓国人のチャンス(カン・ユンス)もその一人。
韓国の乗馬競技のホープだった彼は、父親の会社の倒産で多額の借金を背負い、苦労の果てに真庭市に流れ着き、人当りと働きぶりの良さを買われて正社員への道が開ける。
彼には、やはり他所から流れ着いた恋人(和田光沙)がおり、彼女の一人娘(大倉英莉)も彼に懐いていた。
そんな日本の地方都市に流れ着いた男女が、家族になっていく様を描くかに思われた物語は、思いもよらない展開を見せる。

90分超の本編のちょうど3分の1、約30分のところで、チャンスは「転がってきた石」によるアクシデントに見舞われ、まさに「転がる石」のように人生の崖を落ちていく……のだが、本編の半分、約45分のところで、今度は「転がってきた鞄」によって、事態はまたも思わぬ方向へ転がり出す。
この、咄嗟に「ええっ!」と声が出そうになった展開により、一気にサスペンス的要素を帯びた物語は、しかし、さらに思いがけない顛末を迎える。

この展開の意外性は、「真庭から出られない」という一点によって起きる。
その説得力を支えているのは、「物語の重心の重さ」である。
「重力の強さ」と言い換えてもいい。
「圧力」ではない。もとより、流れ着いた外国人であるチャンスには「真庭にいなければならない」という圧力が掛かるいわれがない。
彼は、「物語の重心の重さ」、つまり、「物語の強い重力」によって「真庭から出られない」。だからこそ彼は、まさに「転がる石」のように人生を転落してしまうのだ。

「物語の重心の重さ」の源泉は、地方都市の閉塞感だ(もちろん都会にも閉塞感がある-だから本稿タイトルは「社会の重力」なのだ-が、重心は驚くほど軽い。その軽さは、別の、たとえば「どこへ行っても逃れられない」といった閉塞感につながる)。
本作のそれに圧倒的な説得力があるのは、山崎監督自身が、真庭で農業をしながら映画を撮っているからであり、さらに、16ミリフィルムで撮影された映像だからでもある(劇場公開には16ミリを基にDCP変換したものを使用)。

先に都会を含めた閉塞感を「社会の重力」と書いたが、「社会」には土地だけでなく、「イデオロギー」「正義」といった概念も含まれる。

そういった全てを含んだ「社会の重力」の強さを体現するのが、もう一人の主人公である女子高生の(本作タイトルでもある)山吹(いのりキララ)だ。
戦場ジャーナリストだった母が戦地で犠牲になり、今は刑事の父親と二人暮らしの山吹は、沖縄の米軍基地などに抗議する「サイレントスタンディング」に参加し、やがて一人で交差点に立つようになる。

娘のその姿を見た父親(川瀬陽太)は、彼女を叱る。
しかし父親は、刑事という立場から、リベラル運動に参加する娘を叱ったわけではなく、「覚悟がない」ことを非難したのだ。
お前の行為は「(社会的)正義」のためではなく、ただ、「社会の重力」から逃れるために「(自身が)変わりたい」と思っているだけだ、と。
「サイレントスタンディング」に参加することによって、周囲の人や状況が「自分を変えてくれる」ことを望んでいるだけの娘の甘えを、父親は、「それは祈りに過ぎない」と喝破する。
変わることには自身の責任が伴う、その責任を引き受ける覚悟ができたのなら、『革命でも何でもすればいい』。
ただし、『自分で決めたことが間違っていたとしても、その「間違っていた」ということを引き受けることができなければだめだ』と。

この父親の言葉に、「社会の重力」に抗うヒントがあるのではないか。

本作終盤、交差点に一人立つ山吹と、重力に抗えず翻弄されてばかりのチャンスが、ほんの少しだけ会話を交わす。
それをきっかけに、チャンスの人生が少しずつ変わっていく。
とは言え、彼はずっと真庭にいる。

ラストシーン。
真庭にいるチャンスが、涙を流す。
映画はそこで終わり、少しずつ変わっている(はずの)彼のその後は語られない。
私は、チャンスの涙の意味を捉えかねた。
「希望」であって欲しい。それは私の「ただの祈り」なのだろうか?


メモ

映画『やまぶき』
2022年11月8日。@渋谷・ユーロスペース

毎週火曜のユーロスペース割引サービス日の、18:45上映回。
割引に加え、公開日から4日間続いた山崎監督によるアフタートークの最終日(「明日真庭に帰ります」とおっしゃっていた)で、しかもゲストが今シーズン(2022年秋)のテレビドラマで話題になっている『エルピス』の脚本家・渡辺あや氏だったということもあったのか、91席の劇場は満席だった。

色々興味深い話が聞けたが、本作の内容に関することについて1点だけ。
本作が「刑事である父親の行動に一貫性がない」といった批評を受けることがあるという。
確かにそうなのかもしれないが、でもそれこそが、「物語の重心の重さ」が作品の「リアル」に直結していることを示しているのではないかと思う。
逆に言えば、従来の物語が「地方を舞台にしていても、結局は東京発想」であることを示唆していて、そういう物語において本作の父親像は「フィクション」として受け入れられているのではないか、ということ。

山吹役の祷キララさんは、昨年(2022年)のTAMA映画祭で出演作『サマーフィルムにのって』(松本壮史監督)上映後のトークに出席してらしたのを拝見した(私は別の上映作を観るため、失礼ながら途中退場してしまった)。
映画ともトークの時とも違って、本作はすっぴんに近かったこともあってか「リアルな女子高生っぽいなぁ」と思っていたら、撮影は『サマー~』よりも前、2019(昭和94)年4月だったという。だから当時、彼女は19歳になったばかりだったはず。リアルなはずだ。

そういえば、本文で本作ラストシーンについて『チャンスの涙の意味を捉えかねた』と書いたが、補足しておくと、それは本作の批判ではなく、「その時の自分の状況や気持ちの在り様によって受け取り方が違ってくるだろうな」と思ったのだ。
だから、今後、本作を観た時に、自分がどう解釈するのか、楽しみに思ったのである。

おまけ

本作を観た2022年11月8日は、物凄く珍しい皆既月食が見られた(らしい)。
劇場を出るとみんなが空にスマホを向けていたので、私もその方向に目をやると、もう月食が終わり、月が見え始めたところだった。
そういえば、前にもこんなことがあったなぁと思い返してみると、それは2021年5月26日のスーパームーン+皆既月食だった。
翌日の拙稿に、最初の緊急事態宣言中に出された映画監督・西川美和氏のメッセージを引用した。
2年半以上が過ぎ、何とかここまで日常を取り戻せたことが、素直に嬉しかった。


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