映画『悪は存在しない』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)
物語の序盤、ちょっと奇妙な電子音楽をバックに子どもたちが各々奇妙な姿勢で静止しているシーンを観て、映画『悪は存在しない』(濱口竜介監督、2023年。以下、本作)は当初、「サイレント映画」として企画されたものだったことを思い出した。
日本で生まれ育った我々には、後のセリフでそれはすぐに「だるまさんが転んだ」をやっているのだとわかるのだが、しかし、もし「サイレント映画」だったらと考えた後、本作が初めて上映され評価されたのは、2023年のヴェネチア国際映画祭(銀熊賞受賞)だったことを鑑みて、「さて、現地の人はこれをどう捉えたのだろうか?」と思った。
「サイレント映画として企画された」と聞いて思い出したのが、「中央公論」(中央公論新社)2024年5月号に掲載された、濱口監督と今井むつみ氏(認知科学・言語心理学など)との対談である。
私は「中央公論.jp」サイトの抜粋記事を読んだだけなのだが、その中で濱口監督はこう語っている。
本作が最終的に「サイレント映画」を捨てた(念のため補足しておくと、「サイレント映画」を前提としてはいたが、俳優には与えられたセリフがあり、撮影時はそれを(所謂「濱口メソッド」で)発話していた)のは、結果、自身の課題を克服できなかったのだ、と思うのは、きっと早計だ。
観た人はわかると思うが、本作、セリフ自体に意味はなく、逆に、セリフがないシーンこそが饒舌に語っている。
ところで、先の対談は、今井氏と秋田喜美氏(認知・心理言語学)との共著『言語の本質』(中公新書、2023年)が前提となっていて、濱口監督は、この本に書かれた「記号接地」についての記述に興味を持ったという。
「記号接地」については、この本で、こう説明されている。
『まるごとの対象についての身体的な経験』ということはつまり、それには「母語」が大きく関係している。というか、私の理解では「母語」こそ「経験」と「接地」している。
なのに、「だるまさんが転んだ」に「接地」されていない海外の人たちが本作を評価した、いや、それ以前に、そもそも日本語を母語として現在日本で暮らしている我々でさえ、「グランピング」も「コロナの補助金」も「マッチングアプリ」も、完全には「接地」されておらず、それでも本作に感じ入ることができる。
それはつまり、濱口監督が言う『長らくセリフを書くことからしか映画を構想できないでい』たことの克服に繋がるのではないか。
そう考えれば、上述したように、本作のセリフは、ほとんどにおいて「接地」されていない。特に、東京から来た男女においては、全くのところ「接地」されていない(だから、男は「接地」を試みようとし、女は水の重みで強制的に「接地」させられる)。
私はだから、冒頭に挙げた「だるまさんが転んだ」のシーンから、努めて言葉を排除しようと試みた。
海外では現地語の字幕(或いは「吹き替え」かもしれないが)がつくのだろうが、しかし、本作の母語である日本語と「接地」していないそれらの言語において、現地の観客は本作をどう観たのか。
或いは我々でも、東京の男女が高速道路を車で走るシーンを「サイレント=接地の無効化」にすると、デートシーンにも見えるのではないか。
本作において濱口監督は、セリフを地上から浮かせて無効化し、物言わぬ風景(まさに文字通り「接地」されている)で物語っている、つまり、その反転に克服の糸口を見つけたのではないか。
そんなこんな、取り留めのないことを思っているうちに、タイトルの意味を掴み損ねた。
きっとネット上では多くの人が色々と解き明かしてくれているだろうし、私が観た上映回を埋め尽くした(本当に満席だった)人の中にも、何かを感じ取った人がいただろうと思う。
だから、私が何か考えるまでもない。
というか、「努めて言葉を排除しようと試みた」時点で、どうでもよくなっていた。
映画評論家であるあの蓮見重彦氏は、濱口監督の「ドライブ・マイ・カー」(2021年)より本作に『強く惹きつけられた』という。
メモ
映画『悪は存在しない』
2024年5月14日。@Bunkamura ル・シネマ 渋谷宮下
毎週火曜日は、この映画館のサービスデーで、それもあったのだろうが、19時10分上映回は、本文にも書いたとおり、満席だった。
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