映画『偶然と想像』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

「偶然」は「過去」に向いており、「想像」は「未来」に向いている。
映画『偶然と想像』(濱口竜介監督、2020年。以下、本作)を観て、ふと、そんなことを思った。

「偶然」とは、「思わぬところで思わぬ人とバッタリ出会った」と言ったような「今ここで起きた事」だと思っているが、そうではなく、「今ここにいるのは、あの時、こんな事が起こったからだ」と過去を振り返った時に想起するものではないだろうか。
さらに言えば、自身では気づけないが、「あの時、こんな事が起こらなかったからだ」というのも「偶然」である。
それは仏教における「縁」の考え方でもある。「出会うのも縁、出会わないのも縁」。
「偶然」を「縁」と考える時、神や仏の導きだとか大袈裟には思わないが、それでも何かの必然性を感じてしまう。

田中久文著『日本の哲学をよむ 「無」の思想の系譜』(ちくま学芸文庫、2015年。以下、田中)によれば、哲学者・九鬼周造(1888-1941年)は自著『偶然性の問題』(1935(昭和10)年)で、「偶然」について、こう思索しているという。

甲でもあり、乙でもあり、丙でもあり、丁でもある離接的肯定はその裏面に、甲でもなく、乙でもなく、丙でもなく、丁でもない離接的否定を有っている。絶対者が「必然-偶然者」であることは絶対者が絶対有であると共に絶対無であることを物語っている。

田中 P227

その『偶然性の問題』とは。

この書は、「偶然性」とは何かをさまざまな角度から分析したものであるが、そのなかで九鬼は、われわれの生がいかに「偶然性」に満ち満ちたものであるかを説く。人間は、みずから選び取ることのできない状況のなかに偶然的に生まれでる。そして、外側から自己に降りかかるさまざまな偶然的事件に遭遇しなければならず、さまざまな他者との偶然的出会いを生きなければならない。

田中 P207

本作の3本の短編において、それぞれの登場人物が「偶然的事件」「偶然的出会い」に遭遇し、それに巻き込まれていく。

このようにわれわれの生は「偶然性」に満ち満ちている。しかし人間は、通常こうした偶然性を直視することに耐えられない。それは偶然性というものが人間の一切の意味づけを無化し、人間に寄る辺のない不安感を与えるからである。

田中 P207

確かにそうかもしれない。
だとすると、「第一話 魔法(よりもっと不確か)」の芽衣子(古川琴音)が、元カレのカズ(中島歩)に会いに行ったのは、嫉妬などではなく、『寄る辺のない不安感』に突き動かされたから、とも考えることができるのではないか。

そして、先に挙げた『絶対者が「必然-偶然者」である』とするならば、「第二話 扉は開けたままで」で、それを引き受け『外側から自己に降りかかるさまざまな偶然的事件に遭遇しなければならず、さまざまな他者との偶然的出会いを生きなければならな』くなったのは、瀬川(渋川清彦)でも奈緒(森郁月)でもなく、実は佐々木(甲斐翔真)ではないだろうか。

「必然-偶然者」という絶対者は、彼(九鬼)によれば「運命」として人間に立ち現れるという。偶然としか思えないもののなかに、単なる偶然を超えた何らかの必然的なものを感じとったとき、人は「運命」というものを考える。

田中 P229

これについては、感覚的に理解出来そうな気がする。
冒頭で私は、「偶然」とは、「今ここにいるのは、あの時、こんな事が起こったからだ」と過去を振り返った時に想起されると書いたが、つまりそれは、その「偶然」が振り返った時に「必然であった」と得心することを意味する。そして「必然であった」と得心した時、人はそれら「偶然」を辿ってきた現在を「運命」と意味づける。

彼(九鬼)は「運命」には二種類あると説く。

「普通の運命の概念にあっては、目的的必然が目的的偶然を制約すると考えられるのであるが、勝義しょうぎ[仏語。最もすぐれた道理。第一義。出典:Goo国語辞書]の運命概念にあってはその反対に目的的偶然が目的的必然を制約するのである。」

「目的的必然が目的的偶然を制約する」とは、「運命」を予め定められた必然的なものとして、ただ受動的にのみ受け止めることである。つまり「目的的偶然」の背後に「目的的必然」をみようとする立場である。しかし本当の意味での「運命」とは、「目的的偶然が目的的必然を制約する」ものでなければならないという。それは、あくまでも「目的的偶然」に対して開かれた生き方をしながら、それを通して「目的的必然」ともいえるようなものを、みずからの手でつくり上げていこうとすることを意味しているのであろう。

田中 P235

本作「第三話 もう一度」において、確かに夏子(占部房子)はあや(河井青葉)を高校時代の同級生と間違えた。そして通常であれば『目的的必然が目的的偶然を制約』し、単なる人違いで終わるはずだった。
しかし夏子は、自身が起こしてしまった『目的的偶然』を、あやに対する『目的的必然』へと転換してしまった。

そしてそれは、他の2話についても同様である。
芽衣子は刹那の「想像」の後、自身の『目的的偶然』を、カズとつぐみ(玄理)に『目的的必然』として譲渡し、店を出る。
奈緒はまさに、『「目的的偶然」に対して開かれた生き方をしながら、それを通して「目的的必然」ともいえるようなものを、みずからの手でつくり上げていこう』と決意し、バスを降りる。

私が本作で好もしいと思ったのは、冒頭に書いたように、「想像」を「未来」へ向けさせていることだ。
3話とも、そこで起こる「偶然」の岐路で、登場人物たちは「あの時に戻れたら違う生き方ができたのに」と、「想像」を「過去」に向けない。
芽衣子にも奈緒にも、そう思わせるシーンを用意しながら、しかし、濱口監督が、彼女たちにそこから背を向けて、姿勢良く颯爽と去って行かせたのは、何だか嬉しかった。

ただ一人、「あの頃に戻れたら」と「過去」に取り残されたのが、上述した『外側から自己に降りかかるさまざまな偶然的事件に遭遇しなければならず、さまざまな他者との偶然的出会いを生きなければならな』かった、佐々木だ。
一見、彼は奈緒が起こした「偶然」によって「幸運」が舞い込んできたかのように思える。
しかし実際のところ、結婚を含め『遭遇』した『偶然的事件』に翻弄され続けてきた彼は、自ら「運命」を決めたことがない。
そのことに無自覚な彼は、「偶然」バスで奈緒と再会し、無邪気に「あの頃に戻れる」「想像」をしてしまった。
バスを降りて颯爽と歩く奈緒と対照的に、他人が運転するバスに身を委ねるしかない佐々木…
「偶然」と「想像」についての、とても優れた寓話ではないだろうか。


おまけ

それにしても本作は、色々な切り口から色々な事が書けそうな、ある意味刺激的な映画だった。たとえば、パンフレットに掲載されていた小説家・小川哲氏の寄稿文……

たとえば、語り手が街中で偶然誰かとぶつかってしまう。現実世界でもよくある話だ。多くの場合、「すみません」と謝って通り過ぎ、翌日にはそのことも忘れている。だが、読者はそれでは納得しない。ぶつかった相手は語り手の初恋の相手や、語り手の親を殺した犯人でなければならない。「誰も発砲しないのであれば、ライフルを舞台上に置いてはいけない」というチェーホフの言葉は、偶然を嫌い、必然を求める人類の声を代弁している。フィクションとは、現実世界のありとあらゆる場所で発生している偶然を、頼んでもいないのに勝手に想像し、必然に変化させる運動である、と言えるかもしれない。

「偶然の耐えられない軽さ」(小川哲) 本作パンフレット所収
(太字は引用者)

つまり、「登場した人物は、(作者がわざわざ登場させているのだから)何らか意味があるはずだし、意味があるのが物語(フィクション)だ」と読者は思い込んでいる。一方で……

『プレーンソング』を読んで、こんなことを言った人もいた。
「よう子ちゃんという女性と共同生活していて、女性だけに関わるいろいろなことが書かれていない。たとえば、生理はどうしたのか」
この感想を聞いて私は「へぇー」と思った。ミステリーでものすごい殺人鬼なんかが書かれているのを受け入れる人がどうして、よう子ちゃんの生理や、クイちゃんがじゅうぶんに子どもの写実になっていないということを指摘するのか。クイちゃんがどうして自分の育てた子どもと同じでなければいけないのか。どうして自分の子どもが考えなかったようなことをクイちゃんが考えてはいけないのか。

保坂和志著「書きあぐねている人のための小説入門」(中公文庫、2008年)
創作ノート『季節の記憶』

同じフィクションでも「現実と同じでは納得しない」と「現実と同じじゃなければ納得しない」…
保坂氏は『物語によって読者がフィクション・モードをチューニングする』と言うのだが、かように、読者(観客)のチューニング・レンジは相当広い。

本作はそのレンジ問題に対する模範解答の一つでもある気がする。


メモ

映画『偶然と想像』
2021年12月25日。@渋谷・Bunkamura ル・シネマ

十数年ぶりにBunkamuraでエレベータに乗った。
いつもはシアターコクーンかオーチャードホールだから、Bunkamuraで映画を観るのは新鮮だった。

以前の拙稿にも書いたが、何故か中島歩はセックスに関して責められる役が多いような気がする…(彼が出演する映画「愛なのに」(今泉力哉脚本・城定秀夫監督)は、2022年2月公開。本作は芽衣子がサラッと言い捨てただけだが、「愛なのに」では観客の男性たちまでもが一緒に凹みそうなほどケチョンケチョンな言われよう……)

なお、本稿における九鬼周造の「偶然」の言及については、朝日新聞2021年12月10日付夕刊の映画評論家・北小路隆志氏による本作評から着想を得ました。



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