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「なにがしたいかわからない」を卒業する時

やりたいことを探している方も、
ずっと探してきた方も。

やりたいことを見つけた方も、
探しても探しても
見つからなかった方も。

今、その渦中にいる人からすれば、
信じられないかもしれませんが、

「やりたいことを仕事に」とか
「なにがしたいかわからない」を、
ふいに、唐突に、卒業する瞬間があります。

そういう人がいます。


なにがしたいか・なにをするか=Doing
が、無価値な自分の人生に価値を、
意味をもたらしてくれるはずだと、
あんなに強く信じてきたのに。

あんなに自分探しをしてきたのに。

色んなことに手を出してきたのに。
挑戦してきたのに。

人生を懸けて挑める何かを探し求め、
使命感やモチベーションを燃やして
行動し続けてきたのに。

そういった気合いが、情熱が、
憑き物が落ちるかのように
抜けていく瞬間が訪れます。

だからといって、
やる気が無くなったわけでもなく、
燃え尽きたわけでもなくて。

訪れるのは、静寂と平穏。


これを書いている私自身も、
15年前、適応障害になったときには
自分と自分の人生に絶望し、
「なにがしたいかわからない」と
半ばヤケクソになりながらGoogle検索し、

やりたいこと探しに明け暮れ、
自分を変えたくて心理セラピーも受けました。


「何がしたいかわからない」を卒業する時。

その瞬間は、いつ訪れるのでしょう。

もしかしたら、
ずっとやりたかったことを
成し遂げた時かもしれません。

もしかしたら、
やりたいことを成し遂げることができず、
諦めた時かもしれません。
敗北を認めた時かもしれません。

もしかしたら、
ずっとやりたかったことなのに、
「なんか違う…」と、違和感を覚え、
幻滅してしまったときかもしれません。

もしかしたら、
私たちが別の命の使い道や
自分の核心に迫ることができたとき
かもしれません。


ある人は、
「何かを求めるより、今できることをやる」
にシフトしてから、

「具体的にどこで何をするか」
の条件にこだわり過ぎることがなくなり、

DoingじゃなくてBeingに
軸足が置けるようになっていきました。


もしかしたら、
気づいてしまったからかもしれません。

私たちにとって
なにをするか/なにがしたいか=Doing
が、私たちの人生の価値を
決めるわけではないことを。

本当は大切にしたかったのは、
どんな私であるか=Being
だったことを。

自分らしくいられるのならば、
何の仕事をしていても、
何の趣味に打ち込んでいても、
どこで誰と一緒にいても、それでよかった。

外側にあるものから、
内側にあるものへ。
軸足の置き場が変わるとき。

なにをしていても、
「コレ!」という何かが無くなっても、

あなたが心地よく
あなたでいられるのならば、
きっと、それで良かったのです。


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