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リセットボタンと時間戦争と

寝て、目が覚めたら別人になっている様な感覚を覚えることがよくある。僕はどれだけアルコールを入れても記憶をなくすことがないのであくまでも予想でしかないが、きっと「酔って記憶を無くす」とはこういう感覚のことを言うのだろう。

それは、かけていた目覚ましが誰かによって消されている様な感覚
それは、履いていないはずの靴下を履いているような違和感
それは、体のどこかにあるセーブデータのリセットボタンを押される様なもので、必死に蓄え続けた瑞々しい感情の数々が気化してしまうほど辛いもの。

昔から自分の本体はどこにあるのか不思議で仕方がなかった。何度かnoteにも書いた様な気がするがセーブデータみたいなものが僕には入っていて、セーブしないままスリープ状態に入ってしまうと、それまでの頑張りが全て消えてしまう様な残念な気持ちになる。

思いや感情が消えてしまって何も無くなると言うわけではなく、その思いや感情は僕のものであるはずなのに、話しかけても答えてくれない。あの日味わった綺麗な絶望や自然と一体化する時の澄んだ畏れを冷凍パックしていたはずなのに、セーブを忘れるとリンクの期限が切れてしまう。

昨日の僕と、今日の僕。今日の僕と明日の僕が同じ人間であるという確証がない。僕という人間は未来から始まっていて、適切な着地点に向かってふんわりと落下を続けている様な気がする。

落下中に何かを落としているなんて面白いと思う。


ここ最近は特に”自分の時間”を持てていなかった気がする。ここで言っている自分の時間とは、自分のための時間とは意味が違う。自分を愛するための時間や、自分を大切にする時間とも違う。

ここではそれを、”自分だけの物差しで定義した時間”という意味で使いたいと思う。

今日が終われば明日がくる。
明日の次は明後日で、その次は明明後日。
年月も過客と言われる様に、時間は流れ来て去っていく旅人の様な存在だ。

だが、捉え方を変えれば時間はそうではない。
「時間は左から右に流れる時系列の直線だ」と捉えるのが本来の”時間”という言葉が用いられる際の意味だとすれば、僕だけの”時間”は
「目の前にある直方体で横から見れば幅を持った数直線に見えるが、視点を変えれば平面に見えたり、ただの線分に見えたりするもの」である。

話をややこしくしてしまった。

要は、「時間は未来から過去へと流れてくる」と考えるのは受け身だということ。能動的に時間の向こう側、もしくは上側に回ってしまえば本来の”時間”を超えた考え方ができる。

今抱えている悩みがあり、全身の骨が軋み悲鳴を上げるような痛みがあったとしても、視点を変えればそれは青春の一部かもしれないように。

人生と時間という関係性をどの視点から観察するかによって、生き易さは変化する。

この”時間”を最近の僕は持てていなかった。すべきこと、したいこと、しておいた方がいいことなど、数えればたくさんのtodolistと追いかけっこをしているようで。

息の詰まる様な生活だった。

noteに書くという行為は、僕にとって”時間を超える”という行為でもある。書いている瞬間の思考は時間を超えているし、見返す時は思考が過去へ飛行する。

書くことを通じて、自分だけの時間をとりもどすことができるなら。
これはもはや戦争なのかもしれない。
世界と自分の戦争

書いて書いて書きまくってこそ、この戦争に勝利して人質に取られている時間を誘拐しなくてはならない。時間を背中に抱えて逃げなくてはならない。

少しずつ、でも着実に。
自分の中で失われていた僕の時間を取り戻すため正義の文字で戦いたいと思う。



ぴーす

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