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大人になれない子供ぶるのはやめるよ

ノア・バームバック監督の映画に『ヤング・アダルト・ニューヨーク』というものがある。

よく「大人なんていない、大人みたいな子供がいるだけだ」みたいな、一見真実味のありそうな台詞を聞くけれど、この映画ではこう言っている。

「大人になれない子供ぶるのはやめるよ」

これは、ひょんなことから20代の若いカップルと親密な時間を過ごすことになった40代の男性主人公が物語の終盤でつぶやく台詞だ。

私はこの台詞がとても好きで、ふとした瞬間によく思い出している。

すこし昔のことだけれど、ひとりで飛行機に乗って移動をしたときのことだ。

国内線で、私は窓際2席の通路側に座っていた。

国内、海外の渡航が多かったので飛行機の移動にもだいぶ慣れていた私は、離陸に余裕を持って座席について本を取り出した。

すると、あとで私よりもいくぶん若い女の子が隣の窓側の席にやってきた。おそらく二十歳前後だったのではないかと思う。

シートベルトの締め方を客室乗務員の女性に尋ねていたので、きっとその便が彼女が初めて乗る飛行機だったのだろう。

当時、私もまだ二十代なかばだったから、自分が「大人」だという認識はさほどなかったはずだ。

見た目は大人だけれど、自分はそれこそ大人みたいで中身はまだまだ子供なんだと思っていた。

その「子供」という言葉の裏には、自分は世の中の大人のように常識に縛られたり、堅苦しい社会ルールを遵守するような「型にはまった」人間ではないという意味もきっとあっただろう。

つまり私はまだ「こちら側」にいるのであり、「あちら側」の人間ではないのだと、そう思っていた。

離陸のために飛行機が動き始めたとき、私はふと隣の彼女を見た。

彼女は履いていたスニーカーをぽんっと脱ぎ捨て、小さな子供のように両脚をぶらぶらさせながら一生懸命に窓の外を見ていた。

そして、おもむろに携帯電話を取り出して窓にはりついて外の景色を長らく撮影していた。その間、彼女は一度も窓から目を離さなかった。

そのとき、私は自分の足元を見た。

そしてなぜか履いていたハイヒールを脱ぐことができなかった。

仮に隣に彼女がいなければ、おそらくハイヒールを脱いで読書に没頭したはずだ。

だけれど私はその日、機内で一度もハイヒールを脱ぐことができなかった。

もしかしたら自分より若い女の子の前でちゃんと大人でいようとしたのかもしれないし、あるいは何らかの意地がそうさせたのかもしれない。

ただ、私はその時に自分がたしかに「大人」であることを実感したように思う。

そして、自分がすでに「あちら側」にいることをはっきりと認識した。

「大人なんていない、大人みたいな子供がいるだけだ」という考え方にも、たしかになと頷く部分はある。そういう考え方に沿って生きる人生というのもきっとあるだろう。

しかしながら、私は「大人になれない子供ぶるのはやめるよ」という言葉に重い真実味を感じずにはいられない。

何をどうしても、私は私の生きた分だけの時間をたしかに吸収してきた。あるいは、たしかにその時間を失ってきた。

そしてその得たのか失ったのかも分からない時間が、おそらくあの日の私にハイヒールを脱ぐことを止めさせたのだ。

私はもう子供ではない。あの無邪気さや新鮮さに憧憬を抱いたところで、私は知らぬ間にたしかに「こちら」と「あちら」の境界を越えてしまったのだろう。そして元いた場所に戻ることはもう二度とないのだ。