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文学とは?

今日は生まれて初めて「文学フリマ」に行ってきた。

昨年訪れた「文具女子博」も流通センターで開催されており、流通センターに足を運ぶのは今回が2回目だった。

流通センターまでの道のりは少々複雑で、乗り換えを何回かしてバスに乗ってという工程が発生する(それ以外にもルートは複数あるが、今回は安くて早く行けるものを選んだ)。
一人のときは最寄駅の周辺くらいまでしか出歩かない私にとって、道中はプチ冒険のようなものだった。初めて行く場所は必ずと言っていいほど迷うので、以前の経験をもとに目的地まで行くことができるのはとても心強かった。

今回文学フリマに足を運ぶことになった経緯としては、私の知人と会社の先輩が出展しているというものからだった。
どちらも、すごい近しい存在かというとそんなこともなかったのだけれど、人の書いた文章を読みたいという気持ちと、その文章を綴った人実際に対面し、その人の手から文章を買いたいと言う思いがあった。

私はここでひとつ、疑問を持つ。
そもそも文学とは何なのだろうか。

言語は本来、認識・伝達の手段である。
複雑な世界を単純な記号におきかえることによって、ひとは世界を理解し、その内容を情報として伝達している。
〜中略〜
ところが、文学の言語だけは、言語本来の働きを怠っている。文学の言語は、情報処理の経済性に逆らって、世界を単純化しようとはしない。

とはいえ、文学は、言語表現でしかありえないのだから、言語にできないことは文学にもできない。文学の言語は、言い表すことのできないものを言い表そうとしていることになる。文学の言語は奇妙な言語だ。
文学が目指すのは、具体的なものの理解しがたさを表現することである。文学は、自分が言語として名指しているものが、できごとの一端でしかないことを示すことによって、言語の向こう側に広がる単純ではない世界を、ひとびとに想起させる。
文学が難解なのはこのためである。

文学とはなにか|国立大学法人 大阪教育大学

本来であれば、言語は「認識・伝達の手段」であるが、文学の世界では言語はその働きを怠り、言い表すことのできないものを言い表そうとする。

なるほど興味深い。
わかるようで、わからない。

言葉を用いて自分を表現するというのは、Twitterでのつぶやきもそれに近いのかもしれないなんて考えたりする。

ふだんツイートをする瞬間に、自分は今文学を生み出しているのだななどと考えることはないが、言語を用いて自分自身の思考や思想なんかを綴るのはその行為のひとつと捉えてもいいのではないだろうか。

文学フリマの会場に足を運ぶと、そこには実にたくさんの人がいた。出展者の数は予想以上に多く、会場に足を運ぶ人は1万人にもわたるという情報を目にした。

文学というものはそれだけ人々にとって親しまれており、それを作る人、読む人もたくさんいるのだなというのが実感できた。

以前の自分だったら、このイベントには参加しなかったかもしれない。
引っ込み思案で、休日は家にこもっていることが多い。新しい場所の開拓もほとんどしない。気になるイベント情報はブックマークだけして、気がついたらその日が過ぎていたなんてこともザラにある。

でも今日は違った。
案の定寝坊をしてしまい、当初予定していた時刻よりも大幅に遅れて家を出ることになってしまったものの「文学フリマに行かない」という選択肢はなかった。作り手の人々に自ら会いに行きたかったのだ。

ふだん私は編集の仕事をしている。
「編集」というと、自分自身で1から作品を作ることはあまりないんじゃないかと思われるかもしれないが、私の場合は案外そんなこともなく自分で作品の一部を作ったり、中身に携わったりもしている。
もちろん、クリエイターさんなしでは成り立たない部分も多くあるけれど。

文学フリマはその人々の思いの丈を文字に乗せて綴った作品と巡り会える場所だ。そんな場所に普段作り手でもある私は足を運んで、作品に触れ合ってみたかったんだと思う。

立ち寄ったブースは結局2つだけだったが、1つ目のブースでは完全に初対面の人と顔をあわせ、共通の知人の話をし、すこし雑談も交えながら作品を購入した。こういった経験はコロナ禍を通して、より貴重なものになっていると感じる。

私は2020年に大学を卒業し、就職後はすぐに自粛生活が始まった。対面で、しかも初めましての人と会う経験なんてめっきり減ってしまっていた。だから今日は勇気を出して足を運んでよかったなと思った。

話は逸れるが、去年から今年にかけて「"今までの自分"に囚われ過ぎず、ちょっと勇気を出してみる」ということができるようになっている気がする。自分自身の考え方の変化はもちろん、周りの人からの影響も大きいと思う。

こうやって久しぶりにnoteに文章を書き始めたのも勇気を出したことのひとつだ。文章を書き始めたら書きたいことは山のように頭に思いつくのに、実際にパソコンを開いて編集画面に辿り着くまでが私にとっては本当にとてもとてつもなく遠いことなのだ。

今日、文学フリマに足を運んで、改めてコンテンツを作り上げることの尊さと、作る人・読む人の存在を身近に感じることができた。
やっぱり家にこもってるだけじゃ気づかないことも多くある。アイディアや思考を巡らせるには、いつもあんまり行かない街にフラッと出向いてみるのもいいよな〜などということをぼんやりと考えていた。

さて、この間noteで「100の質問」に答えてみたわけだけど、そこで「もしどんな職業にでもなれるとしたら?」という質問があり、私は「美術館のキャプションを書く仕事」をしたいと書いた

次の日には、美術館のキャプションを書く仕事ってどうやったいいの? 学芸員? 学芸員になるには専門の資格がいるんだ、大学に通って単位を取らないといけないんだ、就職をするには院に進むのがほぼ必須……などといろいろ調べていた。

そして気がついたら学芸員になるためにはどうすればいいのかや、美術館のつくりかたの本を購入していた。

周りの人の人生を見て、100の質問を答えるにあたり自分自身が本当にやりたいことを考えて、今から新しいことに挑戦してもいいんだな。自分のやりたい仕事に携わって生涯を終えたいな。という気持ちが沸々と湧き上がってきた。

今では通信制の大学に今から通い始めることも検討している。もちろん学芸員以外の方面で今のスキルを活かした美術方面の仕事に携わることもできるかもしれない。そんなこんなで、数日前から私は非常にわくわくしているのだ。勇気を出したことのいい影響をこんなところでも感じる。

noteでは今後も自分の心境やこれからどうしていきたいのか、新しい取り組みなどについて綴っていこうと思う。

なんだか混沌としていて、まとまりのない文章になってしまっているが、今の自分の気持ちを記録として残しておきたいと思いつらつらと書いてみた。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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