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ぐいっ!

 昔通った、通訳の養成学校時代の話です。私のクラスメート達は、それはそれは優秀で勉強熱心な方々ばかりでした。その中でも、特に仲良くなった4人組でしょっちゅう集まり、自発的な勉強会などもしていました。

 ある日のこと、とある授業の冒頭で、講師がいきなり英語の音声を聞かせ、「〇〇さん、訳してください」と言ったのです。何の準備もしてない、新しい話題でした。それが終わるとまた同じ生徒に、「〇〇さん、訳してください」。その次もまた同じ生徒に、「〇〇さん、訳してください」。それを確か5回ほど繰り返した後、その講師の「解説」が始まったのです。

 ―― 皆さんは今、プロの通訳者になろうと勉強を続けている途中ですよね。プロになったら、次はあの生徒の番だとか、この後は少し休めるとか、決してそんなことは起こらないのです。毎回必ず自分なのです。先ほど、ずっと〇〇さんにお願いしたのは、それを皆さんに分かっていただくためだったのです。

 ―― ところで、皆さんが今頑張っている姿を、この飛行機と滑走路に例えます。飛行機には、いつか離陸する瞬間がやってきますよね。いつかはこの「グイっ!」と飛び立つ瞬間が来ないと、この滑走路をず~っとず~っとず~っと延長していくことになるのです。でも、生徒として、アマチュアとして、永遠にこの勉強を続けていくことは出来ませんよね。――正にごもっともな話です。

また、これは別の講師の話です。プロとして、本当の意味で実感が湧くのはどういう時かと言うと、「初めてお金をいただく時」だそうです。この「グイっ!」と飛び立つ「デビュー」の瞬間を上手に捕らえ、その後も失速せずに努力を続け、地道にプロとしての経験を積み上げていくのでしょう。

 その後の人生の中でしばらく、私は「成功者」と思しき素晴らしい人物に出会うたびに、ついつい、そして図々しくも「決断の時は自信がありましたか?」と聞いていました。自分に自信がなかったからだと思います。しかしその後随分と時が流れ、何かの夢に向かって必死に努力する若者に出会うたびに、私は決まってこの「グイっ!」の話をするようになっていました。いつかは思い切って飛び立たなければいけないんだよ、ってことですよね。

 さらに、これまた別の講師の話です。通訳学校で、講師の誰もが太鼓判を押した非常に優秀な生徒がいたのに、その人は結局プロにはならなかった。その一方で、講師の誰もが無理だろうと諦めていた生徒は、その後死に物狂いの努力を続けて最終的にはプロになった。その後のキャリアは別にして、プロとしてその道を「選ぶ」のかどうかは、結局本人次第である。―― 正にごもっともな話です。

 ちなみに、先ほどの話の中で、「次も訳せ」「その次も訳せ」と繰り返し言われた生徒は、私の勉強会仲間の一人でした。そのわずか数年後、通訳・翻訳関連の雑誌を本屋でパラっと立ち読みすると、その彼女が大企業の社内通訳者として立派に活躍する姿が大きく紹介されていました。

 当時、丸々1年間、週3回の授業があり、忙しい予習や復習の合間に、よくもあんな無茶な勉強会などを挟み込んでいたものだと、我ながら感心します。

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