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獅子舞と車

やはり、獅子舞は生き物だ。機械のように動くことはできなくて、無駄ばかりを作り出す存在だ。この獅子舞を最短最速便利を実現するための車と比較した時に、何が見えてくるだろうか?考えたことをここにまとめておきたい。

アスファルトは無表情

僕はアスファルトが気に入らない。なぜ、硬くてのっぺりとしたもので豊かな大地を覆わねばならないのかがわからない。いろんな土地を歩いていても、全部足元が同じような形状だからつまらない。足元だけ眺めていると、自分は今どこを歩いているのかよくわからない気持ちになる。足元はにこりと笑っているのか?泣いているのか?怒っているのか?全くもって無表情だから、何が言いたいのかがわからない。土がむき出しであれば、水をどれだけ含んでいるか、硬いか柔らかいかなどさざまな表情がある。けれどもアスファルトができてしまってから、大地は表情を見せてくれない。日差しはアスファルトに照り返され、人間に熱を放射する。だから暑くてたまらなくなって外を歩きたくもなくなる。アスファルトができてしまった原因は車が通りやすい道を作るためだと思う。車ができたから、歩くことはなくなったのだ。でも僕は歩くことを諦めたくはない。車の中が息苦しいと感じることがある。しかも、車に乗っているとよく酔ってしまう。

車は生き物なのか?

車を正面から見ていると獣の頭を模しているようにも思える。サイドミラーが耳で、ライトが目で、排気口が口だ。エアコンをガンガンつけていると、尻の穴から液体が流れてくる。どこか生き物のように見えてきて、よくよく考えてもみれば、車って新種の生物だよなと思う。ただし、ツルテカで頑丈なフォルムは生き物っぽくない。車は大体の動物とぶつかったら勝ってしまう。それと同様に、人間すらも引いてしまうときがある。あまりにも無情すぎる。昔は例えば、医者に行こうとしても便利な交通手段がないから医者にかかることができなくて死を待つことしかできない人も多かった。そういう意味では車があることで移動は便利になったが、結果、交通事故による死者も多く出している。結局、苦労の仕方が変わっただけで、人間はあまり変わっていないのだろう。

便利だから広まる

それでも僕が車にお世話になっているのは、世の中に車が普及してしまって、それなしでは社会が回っていかなくなってしまったからだ。携帯も洗濯機も冷蔵庫も何もかも同じだ。便利だ便利だなどと言って他人が羨ましくなって、結局使いたくなってしまう。いくら過疎地に住んでいる人だって、情報が入りさえすれば羨ましくなる。だから、どんどん便利なものは広まっていく。そんな風にして日常の当たり前になった時に、便利なものは凶器となる。だから、ほどほどに。仲良くなりすぎずに、距離を保つ。便利なものとの付き合い方の極意だ。

獅子舞と車との関係性

獅子舞はどこまでも人力で野生的な存在だけれども、たまに車にお世話になることがある。家を門付けして回っている時に、家と家との間が離れている時は、車に獅子舞の道具を積み込んで移動したほうが早いからだ。時間短縮になるし、体への負担が減る。だから、車を使うのだ。でも、車があるから足元はアスファルトだらけである。本来自然と対話するためだった獅子舞というものは、アスファルトの先に見えぬ大地を想像することなく、アスファルトこそが大地であると認識する。それに加えて、獅子舞の休憩場所として、道路の縁石に腰掛けることもあるくらいだ。昔は木の切り株に腰掛けていたのだろうが、今はそれが縁石に変わっているというわけだ。車の登場は獅子舞のあり方をも変容させている。知らず知らずのところで進んでいるから、皆気付かない。

問題は車ではなく便利を求める心

しかし、こういう考え方もある。ティムインゴルド著『ラインズ 線の文化史』によれば、オーストラリア西部の砂漠で、アボリジニは自動車を徒歩旅行の器官に変えてしまったという。また、ダイアナヤングの「ブッシュのなかで彷徨(ほうこう)する自動車は身体の動きのように操られる」という言葉について紹介し、運転手は岩や切り株やウサギの穴のまわりを巧みに通り抜けるという行為があるならば、それは歩くことによってできた足音と車の轍が同じ種のものであることを主張している。つまり、自動運転でもしない限り、車の運転は人間の身体の延長にある行為なのだ。そう考えれば、野性を覆い隠すものはあくまでも車という人工物そのものではなく、それによって最短最速で便利な移動を実現しようとする思考とそれを反映した町の作り方にあると言えるかもしれない。

最短最速を妨害する獅子舞の役割

そういえば、石川県のとある港町の獅子舞で車を通せんぼするとか、運転手に酒を飲ませる獅子舞に出会ったことがある。これはもしや野生の逆襲か?と思う。時には、車を破壊することもあるらしく、それほど荒々しいことが祭りの醍醐味だという。獅子舞にとって車はもはや高価なものでも便利なものでもなくて、単なるおもちゃに過ぎないのかもしれない。このような獅子舞が広がれば、車という存在そのものに対する人々の解釈が変わっていくことだろう。車が最短最速を達成するための乗り物であるならば、獅子は最短最速を妨害する生き物でもあるというわけだ。獅子舞と車の物語に、これからも注目していきたい。

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