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誰かがくれた抽象的な価値は要らない。

小学生の時の僕は、全く本を読みませんでした。本を読むという行為を毛嫌いしていて、マンガもギャグ漫画以外はあまり読んでいませんでした。

その理由は、学校の先生が語る、読書の価値観にありました。小学生の頃から先生たちは口をそろえて言います。

「読書は、素晴らしいことだ」

昔からその価値観が、全くよくわかりませんでした。

先生によっては、授業中に読書しているヤツがいても、怒らないことがあります。

「あのね、読書は素晴らしいことなんだけどね、今することじゃないよ」

「いや、人の話を聞いていないのに、何が素晴らしいんだよ!笑」と心の中で思っていました。どうして、読書の価値はそんなに高いのでしょう?

例えば、テレビを観たり、ゲームをしたりすると、「目が悪くなる」「勉強しなさい」など、何かしら否定的なことを言われることが多いです。

でもこれって、すごく失礼な話だなと思います。テレビ番組を作るのも、ゲームを作るのも、そこにはたくさんの人たちが関わっていて、日々試行錯誤して生み出しています。それに気が付いた僕は、読書もそれらと同じ位置付けにするべきだと思っていました。優劣はないはずです。

読書だったら、同時に誰かと楽しむことはできませんが、テレビやゲームは誰かと一緒に楽しめる。こんなに平和なものはないでしょう。

さて、そんなことを言っていた僕は、現在、2日に1冊程度のペースで本を読んでいます。ごちゃごちゃ言ってましたが、読書は素晴らしいです(笑)。

不思議なもので、何が素晴らしいのかを納得できないと、人間は適切な意味を見出して、動くことができません。

とにかく大事なのは、周りに半端に流されないことだと思います。

小学生時代、先生の言う通りにしていた人は、先生の言葉を素直に聞いていたというよりも、長い物に巻かれていただけの人がほとんどです。なので、納得できるかどうかは関係ないのです。そうすると、一時的には素晴らしい読書に参加できている気がしますが、何が素晴らしいかはよくわからない。現在も読書の習慣がある人は、ごくわずかです。

それも、当然のことなのです。読書に対する価値観は、人それぞれ異なっていて当たり前です。読書を通して、新たな考え方を得たい人もいれば、夢中になりたいだけの人もいますし、知らなかったことを知りたい人もいます。

その価値観は、優劣もないし、誰かに押し付けられるものではないので、自ら見出してく必要があるのです。そして、その見出す力は、体験していくことでしか培われないと思います。

しかし、体験したことがないものは、なんとなく後回しにしてしまうことがあります。読書だって本格的に始めたのは、暇を持て余した中学3年生のときでした。小学1年生の時から後回しにし続けていました。本当にもったいないです(笑)。

その他にも、僕には毛嫌いしていることがたくさんあります。
飲み会、クラブ、ダイビング、パチンコ、相席屋、プリクラなど…。
イケイケの人がやりがちな行事は、なんとなく苦手です。

これを楽しんでいる人に、魅力をきいても、具体的な答えが返ってこないことがほとんどです。ただとにかく、楽しいそうです(笑)。

これからは、未体験のことも楽しんでいこうかななんて、考えています。

その前に、昨日買った「あたしンち」の最新刊を読まなくちゃいけません。

早速、イケイケな行事は、後回しになってしまいそうです(笑)。

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