消費するために生きていると、「喜び」を忘れてしまう。
1月ごろ、沖縄の実家の両親が、食料品や生活用品などを、段ボール2箱分に詰めて送ってきてくれました。
年に数回送ってきてくれるのは、とてもありがたいのですが、段ボールの中に入っているものは、いつも僕の好みではない食べ物ばかりです。
送ってきてくれるたびに僕は、スナック菓子やカップラーメンなどがあまり好きではないと伝えていますが、年に数回しか送る機会がないため、両親は忘れてしまい、またスナック菓子やカップラーメンが大量に入った段ボールを送ってきてくれます。
そのたび僕は、大量のカップラーメン、スナック菓子と毎回にらめっこして、賞味期限内に食べるための努力をします。
食べ終わった後は、「よし、食べたぞ」とつぶやいて、袋をゴミ箱へ捨てます。
それと同時に、カップラーメンやスナック菓子を送ってきてほしくない理由は、ここにあるのかもしれないと思いました。
僕は、カップラーメンやスナック菓子を食べれないわけではないので、喜んだフリをして食べることは十分にできます。
自分ではどちらも進んで食べないので、たまに食べることによって、それぞれの良さにも気がつくことができるはずです。
しかし、食べ終わった後に湧いてくる感情は、達成感だけです。
美味しいと思えるものなのに、「無駄にせずに消費した」という達成感が襲ってきて、妙に心地が悪いのです。
そういえば、大人になるとともに、何に対しても、そういう考えを抱くようになりました。
毎日の仕事も生活も、やりたいからやっているのに、いつの間にか「消費する」ことが先行していました。
自分の体力を使うこと、時間を使うこと、気力を使うことが、人生そのものだと思うようになって、肝心な本質を見失っていたのです。
本当は、人を喜ばせることや、自分の生活を豊かにするためなどの目的があってこそ、体力や時間や気力を使っているのに、もはや消費することが目的になっている自分がいました。
だからこそ、モノを食べるときに、「美味しい」が先にこない自分に、嫌気がさしたんだと思います。
だって、消費するために生きているわけではありませんから。
体力を使うこと、時間を使うこと、気力を使うことは、あくまでも自分や他人の「喜び」を生産するためであって、常にトレードオフの関係でなければなりません。
だからこそ、消費するだけの目的でカップラーメンやスナック菓子を食べるのなら、誰かに譲って、他人の「喜び」を生産した方が、よっぽど気分が晴れることでしょう。
自分の消費活動は、「喜び」を生産しているだろうか。
そのことを念頭に置いて、消費していきたいと思います。
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