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状況を好転させないなら、それは正当な批判ではない。

SNSが急速に発達した今、誰でも声をあげやすくなりました。

自分が素晴らしいと思ったものを、世界中に「素晴らしい」と伝えることができる反面、自分が憎いと思ったものを悪意を持たせて伝えることもできます。

好意的な言葉と同時に、批判的な言葉を目にする機会が増え、今度は逆に、「批判なんてやめよう」「批判なんて時間の無駄だ」と言う人たちも出てきて、若い人を中心に、“批判している人批判”も始まってしまいました。

こうなると、なかなか言いたいことが言えず、せっかくのSNSも意味を成しません。

自分が本音で発言したことが、批判的な意味に分類されてしまうこともあるでしょう。

そこで僕は、“正当な批判”とは、何だろうと考えてみました。

正当な批判――。それは、状況を好転させるための言葉のことです。

あくまでも僕の基準なので、一概には言えませんが、少なくとも現状を好転させる気がない批判は、正当な批判とは呼べないでしょう。

鋭い自分に酔いしれているだけの言葉や、相手を貶めたいだけの言葉、反射的にイライラしたからといって吐いた言葉などは、全て正当な批判ではありません。

傲慢だったり、誹謗だったり、愚痴だったりと、批判とは違う部類に入る言葉たちです。

その言葉を発するたびに自分の体力は削がれていき、その言葉を受ける人の体力も浪費させます。

もちろん、気に入らない事実があることは、仕方のないことです。

ただ、それを伝えたところで、現実も自分自身も、好転していくことはありません。

もしかしたら、自分の誹謗中傷が本人に届いて、本人の行動を制限できるかもしれませんが、それでも自分の心がスッキリするほどの快感はないでしょう。

そういう人が自分が気に入らない事実なんて、山ほどあると思うので、また気に入らない事実を潰すために誹謗中傷をし続ける羽目になります。

ここまでくれば、自分を犠牲にしていると言っても、過言ではありません。

あまり、マイナスなことを言っていると、自分の体力も削がれていく上に、周りにもよく見えない。

こんなに最悪な状況はありません。今すぐ辞めるべきでしょう。

ただ、正当な批判というのは、好転させる言葉を用いています。

その意見が100%正しいかどうかは別として、「○○した方がいいのではないか?」「こういう風になればいいのに」「こうしたら、もっと良くなるのに」などという、改善した方が良い点が見える言葉があるものです。

そういう批判の声があったからこそ、誕生した制度もありますし、それで我々の生活が守られていることもあります。

これは、発信においてだけではなく、自分自身の人生にも言えることです。

例えば、自分の出来が悪かったことに対して、「俺はダメだ…」と人格否定するのか、「もっとこうすればよかった」と反省するのかで、人生の好転具合は大きく変わっていくでしょう。

否定的な言葉を、すべて「批判」で一括りにして嫌うのではなく、否定的な言葉の中でも「状況を好転させる批判」を利用していけば、もう少し人に優しくなれて、人生を好転させることができるような気がします。

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