隣のナナコさん(後編)
ここで、一つ問題があることに気づいた。俺はナナコさんを、どう呼べばいいんだ? これまでにナナコさんの名前を、本人に向かって呼んだことがない俺が、どう呼ぶのが正解なんだ? ナナコ、ナナコさま、ナナちゃん、ナナコさん。君にいろんな呼び方があることは知っている。しかし、自分にちょうどいい加減の呼び方は知らない。
「ナナコ。ナナコ」
俺の後ろで声が聞こえた。一瞬、体が反射的に震えたが、俺に対して話しかけているわけではないので、振り返るのを我慢する。ナナコさんの方を見ると、岩井の方に振り返っていた。岩井、今じゃないだろ。そんな心の声が岩井に届くはずもなく、俺はその会話を黙って聞くことぐらいしかできなかった。
「明日って、体育館使えるんだっけ?」
「うん。多分使えるはず」
「そっか。やっと、しっかりバスケできるわぁ。今月、俺たちとバド部、
ちょっと少なかったもんな。じゃあ、今日がバド部の使用日だっけ?」
久しぶりにバスケができることに喜ぶ岩井と、それを献身的に支えるマネージャー。その関係性がうらやましくて、叫びたくなるのを必死でこらえていた。
「あー、それは、分からない。あっ、新藤君、バド部の体育館使用日って、今日だっけ?」
アルト調の綺麗で奥行きのある声が、俺の耳の奥に入った。今まで感じたことのない衝撃が、俺の体中に駆け巡った。俺が望んでいた結果はこれだ。今まで企んでいた時間が馬鹿みたいだ。
「あっ、多分そうだったかも」
俺は、何とか言葉を返すのに必死だった。ナナコさんを目の前にすると、一文字一文字発するのが重い。ナナコさんの目は吸い込まれそうで直視できないため、少し目線をずらして頬を見ながら返事をしていた。
「お前、自分たちの部活のことも覚えてないのか?」
岩井は、メガネの位置を整えて質問してきた。
「あぁ、すっかり忘れてた」
俺は、岩井との時間に多くの時間を割きたくないので、岩井の方にチラッと向いたら、すぐにナナコさんの方に向く。
「岩井君だって、忘れてたから、私に訊いたんでしょー」
ナナコさんは、多分来世でも出会えない、天使のような微笑みで返した。しかも、僕の味方をしてくれている。このチャンスを掴まなきゃ。この話題を、なるべく続かせよう。俺はナナコさんの微笑みを見ながら笑った。一緒の空間で笑い合える。幸せはこんなにも簡単なんだって知った。
「確かに俺も忘れてたわ。新藤、仲間だな」
岩井が俺に、笑いながら軽く謝罪した。しかし、この話題の命は短く、そこで終わっていくのが分かった。俺は適当に微笑みながら、岩井に向かって会釈したが、その脳裏では、ここでナナコさんをどう呼ぶかについて結論を出していた。俺のことを新藤君と呼んでいたのだから、適切なのはナナコさんだろう。岩井のように、関係性は深くないから、まずはそこから始めよう。呼ぶとしたら、今しかない。俺は消しゴムを見つめながら、決心を固めた。
「ん? これ新藤の?」
岩井は席を立って、ナナコさんの足元に接近した。椅子の下に手を伸ばして、俺の消しゴムを取った。
「あぁ」
俺から漏れてしまった声は、確実に残念がった声だったが、岩井は察しが悪いため、そんなことは気づかない。ナナコさんは、それについて何か言及することもなく、ただ見ているだけで、岩井が拾い終わったら、黒板に視線を戻していた。
「お前、俺に感謝しろよ」
岩井は席に戻りながらふざけている。それからナナコさんは、俺たちの会話には入らなかった。あぁ、ナナコさんって、呼べなかった。また呼ぶための方法を、何かしら考えるしかないが、喋っていた時間がだんだん夢のように思えてきて、それが終わってしまうと、また上手くいかなさそうな想像ばかりが頭に浮かぶ。
「キーンコーンカーンコーン」
そうしているうちに、授業が終わった。もうナナコさんは、他の友達のところに行ってしまう。ナナコさんは筆記用具をしまいながら、教室の出口の方を見ている。
「ナナコさん」
その背中を眺めながら、俺にしか聞こえない音量で、呟いてしまった。
「ん?」
ナナコさんは俺の方に振り返った。ナナコさんの耳が良すぎたのか、俺の声は聞こえてしまっていた。ヤバい、どうしよう。また幸せな時間が、はじまっちゃう。
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