年をとるほど、自分に可能性を感じなくなる。
20代前半のころ、割の良い仕事も、十分な給料もない僕は、仕事がないときに、よく散歩をしていました。
散歩といっても、ルンルン気分で愉快に歩くわけではなく、自分の頭の中と会話をしながら歩きます。
その時の自分の悩み、誰かへの不満、未来への不安、ちょっとした妄想、遠くにいる友達のことなど、いろんなことを脳内で言葉にしていきます。
体力と脳が疲れ果てたところで、ベンチに腰掛けてボーっとし、辺りが暗くなったころに家に帰ります。
最近は、かなり忙しくなってしまったため、そんなふうに散歩することがなくなりました。
「あんなにしていた散歩、今ではしなくなったな・・・」
今日は、20代前半の頃に、よく散歩していた道を歩きながら、ふとそんなことを思っていました。
かつては、「歩く」という行為が「未来のための営み」だったのに、今では「ただの移動」と化しています。
これではいけないと思い、自分の頭を動かして数分歩いてみたのですが、何も思いつきません。
疲れた、疲れた、疲れた、疲れた、疲れた。
その一言が何度も積み重なって、歩くことすら嫌になってきます。
このとき僕は、「あぁー、嫌な年のとり方をしたなー」と落胆しました。
20代前半の僕なら、「もっとこうすれば、こうなれるはず!」と、自分に期待しながら歩くことができていたのに、今では、自分に期待することすらできていない。
もう、自分が若くないと自覚しているので、自分に可能性を感じなくなってしまうのでしょう。
そうやって、可能性に蓋をした時点で、なりたい自分になれる可能性は0%になるのに、自分がある程度の人生を経験してきた自負があると、つい蓋をしてしまいます。
悪い言い方をすれば、人生を分かった気になっているのかもしれません。
年をとったといっても、まだまだ、20代。
それに、人生は若くない期間が圧倒的に長い。
年齢を理由に可能性に蓋をしてしまっては、この先の人生が、あまりにも楽しくありません。
まだまだ僕は、人生を分かっていません。
だからこそ、歩きながら模索して生きていきたいです。
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