見出し画像

貴願と空

眠れないので貴願と空の話をしたい。それぞれ、人の名前である。


そのために、まずは我々の出会いのきっかけとなった慈英という友について話したい。

彼とは私がザグレブにいたときに出会った。温和で冗談を好む怜悧な男で、我々はすぐに打ち解けて共に車でクロアチア沿岸部を旅することになった。時には生死のかかった数々の困難をともに切り抜け、深い友情で結ばれた我々はしかしある町で別の道を歩むことにした。奇しくもSplit(別離)という名の町だったが、その別離は長くは続かない。

その数週間後、私がバルカン半島を征服し終えてセルビアのベオグラードを訪れるタイミングで、彼もまたその街にいることが分かったので昼飯に会うことになった。何があったのかは分からないが彼はとんでもなくボロボロの格好をしており、ありとあらゆるレストランから入店を拒まれた。結局我々はハンバーガーを買って公園で食べる。彼は私がギリシャで買ったピンキーリングを目ざとく見つけ、見せてみろという。指輪を渡すと彼はしばらく眺めたあと、「こりゃあ銀だな。92.5%銀だ。」と言いながら私に指輪を返す。なんでそんなことが分かるのだ、と聞くと、「ユダヤ人の目だよ。」という。私が返答に困っていると、「っていうのは冗談なんだけど、指輪の内側に925って彫ってあるだろ。」と種明かしをしてくれた。彼は冗談と薀蓄に満ちた男だった。

一度解散して、互いに野暮用を済ませてから夜にバーで再度落ち合うことにした。彼はセルビアでできた友人を連れて行くと言う。

バーに行ってみると、そこには慈英しかいなかった。我々はロードトリップの間散々遊んだ、旅人の間で好まれるいくつかのカードゲームをし、ビールをチェイサーにハチミツのラキア(蒸留酒)を呷る。

やがて慈英の夜行バスの時間がやってきた。戸口まで送りに行くと、慈英の友人たち二人がちょうどやってきたところだった。
長身の、ブロンドヘアを肩まで伸ばして金縁の丸眼鏡をかけた美男は貴願と名乗った。アメリカ人らしい。
赤髪の小柄な女の子はハンガリー人で、空という名だった。彼女の黒い目には使い魔の猫のような印象があった。

慈英と抱擁を交わし、またどこかの空の下で会おうと約束する。
みんなと一通り挨拶した後、彼はベオグラードの飲み屋街の暗い闇の中に消えていった。
貴願と空と私は、場所を変えて飲み直すことにした。

ベオグラードは、若者向けのバーの天国である。ミッドナイトインパリという映画を観た人は、ギルが紛れ込む昔のパリのバーを想像してもらえば、そのままの雰囲気だ。慈英と飲んでいたバーも素晴らしかったが、貴願らと適当に入った店は分けても素晴らしかった。3人とも入店時には注意を払っておらず、店を出るときには酔っ払っていたため誰も店名や行き方すら覚えていないのは残念なことだ。

平日の夜だが人がひしめいていて、その活気にも酔いがまわる。お互いにビールを奢りあったので大ジョッキで3杯ずつも飲んだか。

酒を飲みながら我々三人は大いに語った。職業を聞かれ、ライターだと言うと貴願は、俺たちもだ、と青い目を輝かせる。貴願は詩人で、空も物書きの卵だという。年齢はそれぞれ23と18。

私たちは物を書くということについて何時間も語り続けた。そのうち、人でごった返したところで声を張り上げ続けるのが面倒になったので部屋を移ることにした。東ヨーロッパのこういったバーでは部屋がたくさん別れていて、それぞれに異なるテーマがあるものがしばしば見られた。私たちは真っ白な壁の、真っ白な調度品に囲まれたシンプルな部屋に入る。そこには誰一人おらず、戸を閉めると隣の雑然とした部屋からくぐもった喧騒が聞こえてくるばかりだった。

彼らに一緒に旅をしているのか聞くと、ここ数ヶ月は行動を共にしているという。付き合っているのかと聞くと、貴願は
"We're chilling."
と言って空に軽くキスをした。お互いに好意はあるが、交際というような堅苦しいものではないというのである。

二人に今後の旅程を尋ねると、一度空はブダペストの親元に帰り、貴願はドイツの親戚のところに身を寄せることにするとのことだった。

私たちはその後も部屋を変えながらビールを次々に飲み干し、やがてそれぞれの帰途についた。

さてそれからしばらくして、私は当時交際していたチェコ人の龍堂という女性とブダペスト旅行に行くことにした。空もその時ブダペストにおり、私は彼女とも再会することを約束したが、龍堂はかなり嫉妬深い人だったので3人で一緒に会うのはやめておいた方が良いと考えた。

そこで、仕事でプラハに帰らなければならない龍堂と別れたあとに空と会うことにした。空は龍堂が去ってから数日間、私にたくさんの「とっておきの場所」を見せてくれたが、ブダペストの壮麗なアパートの数々に忍び込み、屋上めぐりをした夜のことは今でも忘れられない。

ある屋上で、彼女は自分の書いた文章を見て欲しいと言った。私でよければ、と答えて読ませてもらったのは、彼女のお気に入りのバーの描写であった。活気あるバーの雰囲気が、彼女の感性を通していきいきと描かれている。彼女は本当に才能ある物書きだった。そう伝えると空は、心底嬉しそうにした。

その屋上を降りて2人当て所もなくしばらく街を歩いていると、ひときわ華麗な邸宅の門が半開きになっている。空と私はそこに忍び込む。

どこもかしこも煤けてはいたが、残された碑文などを空に読んでもらうと、昔の貴族屋敷らしい。ブダペストの街のど真ん中に巨大な屋敷が放置され、特に手入れもされず残っているというのが非現実的に思われ、異世界に迷い込んだような感覚におちいる。

屋敷は全体にボタニカルな装飾が施されており、私のスマホのフラッシュライトの光をうけて建物全体が怪しい影を落としている。

明かりを消し、空と私は階段の踊り場に腰掛けた。上の方にある窓から、奇跡のように満月が見えている。月明かりに照らされた彼女の横顔を見て、私はこの状況でキスをしないのはまずいのではないか、という葛藤を抱えることになった。

「据え膳食わぬは男の恥」というような下卑た話ではなく、この美しい夜に最後の封印を捺すように、放棄された貴族屋敷という都会の孤島に流れ着いた2人は、窓から覗く満月の青白い光の中でキスをしなければならないのではないか。人生という物語の著者として、私には主人公たちに何をさせたいか明確であった。

しかし結局、私は空にキスをすることはなかった。龍堂を愛していたし、一晩しか共に過ごさなかったものの私は貴願という男にも惚れ込んでいた。貴願と空の間にあるものが何なのかはおそらく彼ら自身でさえ分かっていなかったが、なんにせよその邪魔はしたくなかった。

それから月日は流れ、半年ほども経ったある日、空から貴願と「別れた」と連絡が来た。彼女はそのことで精神的にかなり追い詰めれているようだった。彼女いわく、ブダペストとドイツに道を分かったとき、すでに彼らの仲は風前の灯だったらしい。お互いに良い人を見つけたら、それまでにしようと貴願に言われていたという。彼女は実は心底貴願に惚れていたが、そう言われてしまえばどうしようもないと、半ば諦めるつもりだったと。しかし貴願についにドイツで彼女ができたとき、彼らの間柄は完全に変わってしまった。空は改めて貴願が自分を好きでないことと自分が貴願を好きであることに直面して辛い思いをしていた。

そんな話をしてからさらに月日は流れ、ついこの間空と久しぶりに話をした。彼女は今はハンガリーの郊外の農場で馬とともに暮らしていて、そこで知り合った男性と幸せに交際しているとのことだった。そこまで良かったのだが、気になることを一つ言った。

「そういえばあの時ね、あの、コウスケがブダペストに来てた時。貴願に、私とコウスケの間になにかあるのかって聞かれたの。」

私は、彼女がそれになんと答えたのかは聞くことができなかった。代わりに、私が彼らの仲を割くような形になっていたらまことに申し訳ない、と伝えた。

「謝らないで!貴願と私が別れたのは距離のせいだから、あの時のことは関係ないよ。私あの時ほんとうに楽しかったから、謝っちゃだめ。」


今もって貴願と空の不和に私が加担してしまったのかは分からない。私も龍堂と別れ、彼らも離れ離れになった今となっては、あの夜、空にキスをしなかったのは不要な気遣いで、そうしていればもっと素晴らしい思い出になったのかもしれない。しかし結局のところ、私は「人生という物語の著者」などではない。結末を先に知った上でそれに合わせて行動することなど、神ならぬ人間には小説の上でしかできないことである。

眠れない夜、私は、採り得た選択、天の気まぐれに思いを馳せる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?