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フランス産のSAKE、"C'est la vie(セラヴィ)"に込めた想い

今、ちょっと信じられないほど多くの人が、フランス産のSAKE「C'est la vie (セラヴィ)」をWAKAZEのECサイトや、取引先の小売店さんで購入してくれて、飲んだ時の写真をSNSにアップロードしてくれている。Instagramだけでも数十件近い投稿があるように見える。「美味しかった」と言ってもらえたことが、WAKAZEを会社化しよう!と決意したときの原点なので、本当に、うれしくてうれしくて...多分この気持ちが頑張る源泉なんだろうな、と思う。

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そんな中、飲んでいる人の多くが「名前の由来」について、そして「なぜフランスで、パリでSAKEを造ろうと思ったか?」といったストーリーを知りたいかもしれない、と感じて急にこのブログを書こうと思い立った。正直に言えば、このSAKEがちゃんと世の中的にも大きな成功を収めてから、数字的な成果も持って、自信もって記事を書こうと思っていたので、先延ばしにしてきた。でも今、求められている、ないしはそう自分が感じている今この瞬間に書きたいと思って自然とPCに向かっている。期待されるような内容ではないかもしれないが、全てを本当に何も隠さずありのままに書くつもりだ。

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パリでSAKEを造ろうと思ったのは、遡ると2014年。その頃、新卒で入社した戦略コンサルBCGであくせくと週100時間くらい働きながらも1年近くが過ぎて、毎週のように悔し涙を流す日々から仕事に慣れて少しだけ安定してきて、「十年後に自分は何をしていたいか?」を考えるようになった。自分の10年、そしてもしかしたら一生を懸けたいと思えることは何か。その頃の自分にはおぼろげに2つの軸があった。

1つは「日本固有の文化を海外で」、できればフランスで広めること。学生時代は青春の記憶のほとんどはフランスでの2年間の留学時代、というほど数多くの経験をした。37カ国籍もの同級生と日々過ごしていれば、当然自分のアイデンティティを自覚する中で、フランス人にとっての日本といえばフジヤマ、ゲイシャ、スシしか知らないっていつの時代だよ、みたいなイメージをずっと持たれているのは結構ショックだったし、欧州での日本文化の認知はずいぶん浅い部分でずっと留まっているな、と感じた。

もう1つは「日本のものづくり」。祖父が起業家であり、まさに”日本のものづくり”ど真ん中な事業をしていたのも大きく影響を与えたと思う。高度経済成長期に乗じて伸びた事業も、父の代に移る前には既に曲がり角を迎えて、従来型の”日本のものづくり”では難しい時代になっていた。そんな苦しい背中を見て育って、いつか自分も起業して”日本のものづくり”の新しい在り方を世の中に示したい、という想いはどこかにあった。

そんな中でたまたま飲んだ日本酒が、あまりにもフレッシュで美味しく、ご多分に漏れず大学時代に先輩にコールで飲まされる悪い酒という日本酒に対するイメージは吹き飛んで、たぶん、日本酒に、恋をしたんだと思う。同時にさっきの2つの軸にピーンときてしまって、「フランスで日本酒を造ったらいいんじゃないか?」と思い、それからは狂ったように色々な専門店で色々なSAKEを飲んでその多様性と魅力にひきずりこまれていった。そうして友人にもそういう話をしている折に2人の知人を紹介され、今はWAKAZEで取締役CTO・杜氏を務める今井と出会うことになる。初めて出会った飲み会で、いきなりこれをその場に居合わせた全員に配った。要はフランスでSAKEを造ろう、ということなのだが、何の根拠もなくても、自信があった。その時に渡した資料を掘り出してきたのが下記。

創業前の1枚絵

その時集まったメンバーには今井以外に元P&G・元マッキンゼーなどの面々だったが、結局その後一年ほど会社化するまでの時間を、今のデザイナーのヨリコとも一緒に5名で週末起業みたいな形でプロジェクトを共にすることになる...



ーーーパリ醸造所立ち上げに至るまでーーー

さて、時は流れて・・・2018年には東京の三軒茶屋に自社醸造所と飲食店を併設した拠点を立ち上げて、委託醸造での自社ブランド事業も含めると、自社商品発売初年度2017年の3倍以上の売上を記録した。その年はプライベートでも結婚、挙式などがあり慌ただしくも充実した日々を過ごした。もちろん、何度か廃業の危機、みたいなものだったり、人の問題で悩んだり、三茶の立ち上げで苦労したり(前回2018年のブログ記事)、一通りスタートアップ企業にありがちな苦労は経験した気がするが、今思えばハードシングス、というような大それたものだとは感じたことはなかった気がする。事業拡大もあり、メンバーも10人近くに増えた。

2018年10月~12月:資金を集め始める

そして、ようやっと基盤が整ってきたところで、いよいよフランスの蔵の立ち上げにとりかかろうということに。まずは資金調達!ということで2018年の秋から意気揚々と色々な投資家の方を回らせてもらった。どちらかといえば最初はベンチャーキャピタルというよりは、もう少し固い政府系ファンドだったり、そうしたところを回った。その中でも1社、強く関心を示してくれた政府系のファンドとの話が進んだ。実は弊社は一度創業年の秋にエンジェル投資家数名の方から株式による資金調達を実施している。今回のラウンドでは、更にエンジェル投資家数名とファンド1-2社からという想定で回っていた。この時期に多くのスタートアップ業界、特にIT界隈の人と知り合う中で、知らなかった世界を知ることができたのは後になって、本当に良かったと思う。

2019年1月~2月:渡仏、物件探し、思い込み

なんとなく資金調達の道筋が見えてきたタイミングで、渡仏していよいよ物件探し。年末~年明けにかけて一風堂パリのマネージャーだった方から現地の工務店(建築士)や現地の物件探しコーディネーターを紹介してもらい、単身パリに渡った。いよいよ夢の実現に向けて1歩前進、と思うと希望で本当にワクワクするフライトだった。現地についてすぐに物件探しをエージェントのフランス人と一緒にスタート。なんと、1件目の物件が本当に理想に近く、元々100席以上のレストランだったこともあり、広さは400平米以上で排水設備など含めて完璧な状態だった。オーナーは威勢の良さそうなお兄さん、って感じの人だったので若干おや?と思ったけど、話してみると基本的にはいい人そうだったので、内覧の後には「また確認に来る」とがっちり握手をしたのを覚えている。

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その後、十数件を追加で回って、物件巡りはひと段落。基本的には最初の物件にするつもりで、エージェントに価格交渉の方を依頼していた。フランスでは物件を借りる時に「営業権」というのれんのような資産に計上されるものがあり、その営業権が無いと営業することはできない。酒蔵だけなら不要だが、当初の計画ではレストランを併設、ということを前提にしていたので、その営業権を今の借主から買収することが必要になる。日本でも直営レストランを経営しているが、日本には無い仕組みなので最初は戸惑った。その金額は基本的に相対交渉で決まるものの、年間売上の80-120%と言われている。その際、売り手である現借主からは会計資料を貰えるのだが、どうやら売上金をレジから抜いているらしく、売上高が100席規模の会社にしてはめちゃくちゃ低かった。営業権としてかなりの金額を提示してきたが、相場と異なるので理由を聞けば、借り入れがあるからそれを返さないといけないので、という理由。。初めてフランス語の財務資料を精緻に分析したが、色々とこの売り手の問題点が浮き彫りになってきて、不安になりつつ、逆に安くする交渉をできる良い機会と思って交渉を仕掛けた。交渉には売り手のパートナーで更に威勢の兄ちゃんが出てきて、決裂した。その時のことは本当に鮮明に覚えていて「なんだその金額は!悪いけどこれは論外なので帰る」といって本当に怒って立ち上がって帰ってしまった。ドラマじゃないんだからちょっと待てよ笑

ただ、その後条件を何度かすり合わせて、基本的には合意に至って、その金額での仮契約に向けた、条件合意書(資金調達できるまでの一定期間は独占交渉権を持てる)を弁護士さんに作成してもらい、少し安心した。いったん帰国するまでの期間は、建築士の方々と一緒に先輩格であるパイオニア・フランスの酒蔵(昇涙酒造)や、ロンドンのKANPAI SAKEに視察に行き、現地醸造の設備や工事の設計などを参考にして回った。

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そして帰国前。意気揚々と日本に帰国するはずが、何度電話しても物件の売り手から連絡がなく、不安が募っていた...そして、予定通りに一時帰国。後ろ髪を引かれながら東京に戻り、少ししてエージェントから電話が。「どうやら雲行きが怪しい。他の物件も見た方がよさそうだ」と。

2月の帰国後は各投資家を回ったり、既に動き始めていたファンドとの交渉を最終化していくDD(デューデリジェンス)などの時間が多かった。初めての大型投資だったので、これでもかというくらいの細かな調整も必要で、かなり忙しかったので、物件周りの雲行きの怪しさなどの不安も多少はまぎれた。順調にフランスでの会社の設立、取引先銀行との口座開設準備、会計事務所の選定なども済ませていき、あっという間の日本滞在が終わってまたフランスにもどった。

2019年3月~4月:トラブル発生、再起をかけて走る

「どうやら、売り手が会社ごと売却したので、もう手に入らない」。物件交渉を任せていたエージェントから連絡が入り、呆気にとられて数秒間、何も言えなかった。そして、詳細を問い詰めても、わからない、とのこと。諦めて他を探すしかない、と言われたが、十数件探してここしかない!と思って2か月近くを費やしてきた物件だったので、どうしても諦めがつかず、弁護士に調査をしてもらった結果、わかったことは「売り手は借金のため銀行に資産を差し押さえられ、会社ごと10ユーロで他社に売却した」ということ。1200円で会社を売った?握手までして、交渉が成立したのに。。実は、滞在期間中にその物件のあるGentilly市の市役所に市長まで会いに行き、既に「街を上げて活性化のために御社に協力する!」という熱いメッセージを貰い、市役所でのイベントでは「WAKAZE、Gentilly市にようこそ!」と市長に言われるまで関係を作ってきていた。日本からメールを何度も入れて、弁護士や市役所にも問い合わせるが、結局は何ともならず。早速フランスの洗礼を浴びることになった。

その後、約2週間で30件以上の物件を回った。まずは毎日、足が棒になるまでパリ近郊のエリアを足で回ってエリアの良し悪しの検討をつけつつ、前回とは違い、仲介エージェントにまかせっきりではなく、直接現地の物件業者とフランス語でやり取りを取って大量の物件訪問のアポイントを入れた。10営業日だったので一日3件は回っていた計算になる。特に気になった物件が1件あり、南に位置した元々の物件と違ってパリの北東部という治安悪目のエリアだったので、迷いはあったが交渉を進めていた。実際に何度も建築士と通ったり、自分でも夜の街を歩いて安全性の確認などもしたりした。そんな中、10年前にパリの留学時代にお世話になったフランス三田会(フランス在住の慶應出身者の集まり)で知り合った10歳ほど年上の先輩と久々に食事へ。本当に単身でフランスに居たので、兄貴分の先輩に色々な苦労話を打ち明けられたのは救いになった。。食事の中で、「物件探し、調子はどう?」と聞かれ、洗いざらい話したところ、急に先輩の顔が変わった。「琢磨、真剣に考えなおした方がいい。日本からも従業員が来るんだろ?そんな危ないエリアで日本人が拠点構えて襲われない訳がない!絶対にやめておいた方がいい。」大人になって、会社興してからそんな剣幕で怒られたことは無かったので面食らったが、親身になって言ってくれてるのだと思い、本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。結局、その物件は早々に諦めることにしたが、その時先輩が諭してくれなかったらと思うと、ゾッとする。パリはそれだけ北と南で土地単価が大きく違って危険度も日本の比にならないことを教えてくれたことが、今の蔵の立地選びに活きている。

そんな中、今度は資金調達の方も雲行きが怪しくなってきた。基本DDも終えて条件合意に向けて進んでいたファンドから「バリュエーション(企業価値)を下げて欲しい」という話が来た。元々合意していた話とは違うので面食らったが...そして、数日後に物件周りをしている際に「交渉を打ち切りたい」と連絡がきた。大きな要因としてバリュエーションを挙げていたが、どちらかと言えば、正直に話を通していた「決まっていた物件の話がご破談になったこと」が一番大きかったと思う。こうして、頼みにしていた会社からの投資がなくなり、いよいよ窮地に追い込まれた。。何より一番きつかったのは、日本側の法人自体の業績に苦しんだ時期で(当然まだこれから、というスタートアップの代表が日本を離れているから仕方ない部分はあったが)、あと1-2ヶ月くらいで本当に会社の存続が難しい、という資金状況だったため、梯子を外されて奈落の底に突き落とされたような思いがした。時間との闘いの中で、本当にキリキリと胸が痛むような、そんな感覚だった。

ただ、基本的にはポジティブな性格なので、一晩たって、気を取り直して、状況を整理したうえで投資家を紹介してくれる友人に相談して、帰国して改めて投資家をめぐることにした。紹介の紹介、などのおかげもあり、帰国までの1週間の間に、帰国期間2週間合計10件のアポイントをセットすることができた。物件に関しても、帰国までに見つけられた450平米で庭付きの大きな倉庫を借りる前提で交渉を進めることができた。木枠、梁が魅力の酒蔵のような雰囲気がある建物で、一目惚れして「ここでSAKEを造ろう」と心に決めたのをよく覚えている。

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日本に帰国して、投資家を回る中で、素晴らしいベンチャーキャピタル2社と出会うことができ、最終的には5名のエンジェル投資家も加えて、合計1.5億円、日本政策公庫からの資本性ローンも加えて1.9億円の資金調達を実施することができた。詳細はTechCrunchさんが素晴らしい調達記事をまとめてくださっているので、こちらをご参照あれ。(ちなみに資金調達できるまで困窮していた期間は個人のお金を会社に貸し付けて乗り切った。。)

資金の目途が立ってホッとするのもつかの間、フランスに舞い戻って、5月頭までに順調に物件の仮契約と工事の準備が進んだ。フレンヌ市というパリ郊外の町に蔵はあるのだが、そこの市役所に工事の届けを建築士と出しに行った時のこと。「騒音や匂いは大丈夫なのか?」とかなり突っ込まれて、なんとかその場は乗り切ったが少し否定的な反応だったのが気になった。その時はまだ、フレンヌ市との長きにわたる戦いが始まっているとは思ってもいなかった...

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2019年5月~7月:行政ストップで夢、潰える

「フレンヌ市から審査に3ヶ月かかる書類提出が必要と言われました...」一時帰国時に、建築士からFacebookメッセンジャーで電話があった。「どうしますか?工事の準備を進めますか?もしくは諦めて他の物件を探しますか?」急激な意思決定を求められた。しかも、そもそも「都市計画法的にこの物件で営業すること自体が難しい」と言っているとのことだった。実質的に、そこでは蔵の営業を許可しない、と言ってるようなものだ。でもそれは違和感があった、なぜなら事前の確認ではそこで営業すること自体は問題ないという前提の下での賃貸契約だったから。一度工事を始めて、もし後で営業できないとなったらその費用は取り戻せない。ぎりぎりの決断だったが、GOを出し、すぐに弁護士に問い合わせて事実確認を進めた。結果としては弁護士見解としては営業可能、という判断だったのに加えて、1ヶ月の審査で済む書類提出でOKとのことだったので、市の異論もあったがまずはその工事目論見書類を提出した。

そして1か月後、「不受理通知」が届いた。息が止まった。そして、市役所に何度問い合わせても「一度決まったことは覆らない」と。億単位の投資をするプロジェクトが、市長の鶴の一声ですべて消えた瞬間だった。創業以前から数えて5年間以上、夢見てきたことが。本当に、終わった。目の前が真っ暗になって、めまいがした。その晩は悔しくて、悲しくて、嗚咽が止まらなかった...親身になって応援してくれた人の顔がいくつも浮かんだ。。それからしばらくは、常に胃がムカムカして吐き気を感じることが止まらなかった。数か月単位で基本的にたった1人でフランスで戦ってきた孤独もあったかもしれない。その頃のストレスは限界を超えていたと思う。ただでさえ、孤独な上に、差別意識を感じることも多かった。(この記事を書いてる今も、あの時のことを思い出して変な汗が噴き出してる..)

学生の時のフランス留学時代の記憶で鮮明に覚えているのは、部活動のサッカーの試合で、「この中国人が!」と試合中に罵倒され、挙句、骨を折りに来るようなチャージを受けて、その後180cmくらいの大きなDF3人に殴る蹴るの暴行を受けて、助けに入った自分のチームの味方との取っ組み合いに発展して、気が付いたら仲間のスペイン人の鼻が血だらけになって真横を向いた状態に折れていたこと。結果、相手の学生たちは退学になったが、一応、グランゼコールと言われるフランストップレベルの学校に所属する学生である。それだけ、差別意識が根強く残っている国だ。日本にだって差別をする人はいるし、どこの国にも良い人もいれば悪い人もいる。ただ、日常の中でそれを感じる頻度や度合いが圧倒的に強いのは事実で、SNSなんかに容赦のない差別的な発言が書き込まれることもしばしば。

孤独や差別と闘いながら何とか前に進めてきたのに、トドメを刺された。会社を始めてから、Slackなどコミュニケーションツールを見ない日は無いくらい、365日の意識で仕事をしてきたが、その週末の日曜日は創業以来、初めてネットにすら一切触れない日となった。ただ、ただ、ぼーっと頭を空っぽにして、公園の芝生の上で、空を眺めていた。日が暮れるまで、何時間も、何時間も...


その夜、自分の中に湧いてきた1つの考えが、「終わったかどうかを定義するのは自分だ」ということ。一般的な定義としては市に拒否された時点で、一度このプロジェクトは終わっている。それでも、自分はまだ終わってない、とどこかで思っていたし、ここで絶対に終わらせない、という強い炎の種ようなものが、灰だらけになった心の中にまだあって、ジワジワと心を満たしていった。

もう1つ、まだ「何も失ってない」と思った。健康で、これからいくらでも頑張れること。素晴らしい仲間、家族、友人がいて、こんなにも恵まれてるのに「何かを失った気になっている自分」を客観視したときに、そもそもゼロから始めたものだし、今もゼロだと思えば恐れるものは何もない、と深呼吸して思えた。

そして、落ち着きを少し取り戻して、また月曜から動き始めた。まずは毎日、市役所に通って、再検討をお願いしに行った。どうやら職員によれば、実は工事の序盤に大きな音が出てしまって、その際に近隣住民数人から苦情が市役所に入り、翌年の市長選挙に向けて市民からの支持を失いたくないためにポリティカルな判断もあったとのことだった。本来、それはあってはならないことだと思うが、言っても仕方ないので、兎に角、市長に会わせてこのプロジェクトの意義や懸念点の払しょくをさせてほしいと懇願した。毎日通い、電話し、ビジネスフランスの日本人の担当者からも市に連絡を入れてもらうなど、さまざまなアプローチでコミュニケーションを図った。「奥さんのお腹にまだこれから生まれる赤ちゃんがいるんです」と、何度も市役所の職員に話して困った顔をされたことを今も忘れない。(ちなみに、工事の初期に床下の欠陥が見つかり、タンクの重みに耐えられないとのことで1ヶ月の工事延長と1000万円近くの床下工事費用が追加でかかったという話は、上の話に霞んで忘れてしまっていた。)

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そしてようやく、長いチャレンジの末に1通のメールが来た。都市計画課のトップのメールで、市長との面会は出来ないが、申請書類を再提出してもらうことは可能、と連絡があり事態が好転。すぐに書類を再度準備し直して提出し、あとは無事に受理されるのを待つのみとなった。実はこの際、本来は蔵の外に置くはずだった室外機やグリーストラップなどを、騒音や臭害を防ぐためという理由で、まさかの室外機なのに室内に設置する、という設計に変更することを余儀なくされた。それでも、何とか前に進める可能性が見えただけでも、本当に良かった。

2019年8月:WAKAZEの原点、森谷杜氏の死

8月はいよいよ醸造開始に向けて、工事もほとんどが形になって、2500Lタンク12基の搬入など、期待高まるイベントが目白押しとなった。同時に蔵の近くのアパートを借りようと奔走していた。(フランスでは2年未満の会社の経営者で外国人の場合、住宅保険の関係上保険会社都合でアパートの契約を断られることがほとんどで、実際に合計で10件以上は断られたと思う)そのほか、ラベルや様々な資材の仕入れ先探しなどに忙しくしていた。

そんな中、突然、「森谷杜氏が亡くなったそうだ。」、何人かの人から、そんな知らせが届いた。信じられなかった。信じたくなかった。SNSでも元気そうな姿を目にしていた人が、そんなに急に亡くなるとは...

森谷杜氏との出会いは遡ると起業より前になる。両親が仲の良かったこともあり、ありがたいことに何度か蔵にお邪魔させていただいた。よく覚えているのは、杜氏の今井と蔵に行った時に、酒造りの魅力や想いを聞いている側もワクワクするような語り口で話す森谷さんの姿だ。技術的なことも、何もかも隠すことなく語り、こちらから素人ながらの質問を投げかけるときには、穏やかだけど相手の心の奥底を見通すような目でジッと聞いている。ひとたび宴が始まれば、得意の酒屋唄で場を盛り上げる。それまでの人生で出会ってきた誰とも違うタイプの人だった。カリスマ的な存在でありながらも、常に自己研鑽と探求心を忘れない、たまに親父ギャグをどうしてもカマしてしまう、チャーミングな人だった。

WAKAZEという会社の由来は、その著書である「夏田冬蔵」の第一章の名前”酒屋若勢(さかやわかぜ)になる”というところからきている。森谷杜氏をリスペクトする気持ちと、同時に「若勢」でありながら「和風」になって世界にSAKE旋風を巻き起こして、いつかその背中を追い越したい、そういった想いも込めた社名だった。

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急遽、ご親族での葬儀ののちに、「思ひ出を語る会」への招待を受けて、帰国して会に出席することに。杜氏の今井と2人、秋田に飛び、会に出席した。数多くの顔見知りと会い、思い出を語る中で、いくつかの印象的なシーンが頭の中に流れた。その中でも一番は、起業した年の夏に開催された”稲の花見の会”の二次会で業界人が沢山集まる中で「青年の主張をしてみろ!」と言われて、その場でやりたいことのビジョンを長々と語り、森谷杜氏が酔っ払いながら柔軟な体をアピールして足を首の上に上げるポーズをとりながら「もっと柔らかくなれ!」と叱られたあの瞬間をよく覚えている。あの晩は何度も悔しさに涙を流し、でも森谷杜氏の温かさの中に包まれながら、その懐で存分に想いを語ることができたし、そこもまた自分達の原点である。

そんな話をWAKAZEの取引先でも秋田の酒屋さんのご夫妻と話していたら、気が付いたら恥ずかしいことに涙が止まらなくなってしまった。そして、その旦那さんももらい泣きしてしまって、うんうん、と聞きながら、最後に「WAKAZEが残った!」と一言。その言葉が今も、心に強く残っている。会場には森谷杜氏の等身大のパネルもあったせいか、そこにまだ森谷杜氏が居て、その懐に包まれている、そんな不思議な感覚だった。

その日の二次会でも、大いに思い出の話をしたけど、ふとした瞬間に、また今までのように想いをぶつけたいと思っても、ぶつける相手がいないことに気が付いて、「ああ、森谷杜氏はもういないんだ...」と悟った。これからは1人1人がちゃんと強く生きないといけない、そして森谷杜氏をよく知る2人こそが、新しい世代の若勢たちの”ふところ”になって行こう、と誓った。

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2019年9月~10月:杜氏合流、仕入、仲間集め...

別れがあれば、新しい出会いもある。9月某日は、交際開始記念日・婚約記念に重ねて3つ目の記念日となった。娘の誕生だ。本当に立ち会うことができたことに感謝で、2日後にはパリにもどることになる中で、少しでも娘に触れることができたことが幸せだった。夫になり、そして遂に父になり、会社のメンバーや家族を幸せにする、そのためには「蔵が立ち上がり酒を造り軌道に乗るまで帰らない」という強い想いを持ってフランスにもどった。

そこからは本当に怒涛の日々が始まり、いよいよ杜氏の今井も合流して、現地での醸造や出荷にかかわるスタッフの採用面接を十数件こなした。ほんの少し地元の掲示板に求人を載せただけで、30名以上の応募をいただけたことは本当に驚いた。無事に採用も完了し、一緒に働くメンバーが決まった。

いよいよ醸造開始に向けて、必要な機材の調達や米・樽・ボタニカルなど様々な原材料の調達のために、北はアルザスから南はアルル/カマルグ、東はブルゴーニュまで本当にフランス中を駆け回った。その頃には税務署からの醸造許可もおりて準備が着々と進んでいった。

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2019年11月~2020年2月:電気工事未完、醸造開始!

工事については本当は9月くらいには終わっているのが当初の予定だったが、想定外の床下全て掘り返す工事や、諸々あってフランスらしく1ヶ月以上の遅延が発生していた。そして醸造開始が迫る中、電気工事の大幅な遅延が決定。。結局元々8月くらいに実施する予定だったものが11月くらいまで伸びてしまった...ようやく終わったかと思えば、その工事はあくまで一部で、冷却系統を動かすのに必要な十分な電気容量は得られず、必要最低限の工事にとどまって、残る大きな電気工事は年明けまで延期になった。

それでも、現有の電力でなんとか酒造りをスタートしないと、これ以上クラウドファンディングの支援者を待たせるわけにはいかない!と判断して、稼働開始日を決めて、蔵の掃除などすべてを終えた。

そして、11月18日。電話が鳴った。「もしもし...え!?本当ですか!!!」建築士から電話があり、遂にフレンヌ市の市長の許可が下りたとのこと。3人で抱き合い、喜びを分かち合った。そして醸造が開始、若干の緊張の中で、本当に幸せな気持ちで洗米をしたことをよく覚えている。

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そこからはもう記憶が途切れ途切れなくらい、怒涛の毎日で醸造、そして販路開拓まで充実した日々を過ごした。とにかくファーストビンテージのSAKEを日本のクラファン支援者の皆さんに届けるべく、年明けから合流した現地採用のメンバーとも全員で一丸となって醸造・出荷準備を進めた。初月の出荷で、日本とフランスのクラファンや、現地でのレストラン向けなどで約6,000本を出荷。更に、フランス現地ではミシュラン星付きレストランを含めて40店舗に採用され、イギリス・ドイツ・イタリアへのディストリビューター向けの大口取引も決まり、現地での発売開始から約2-3か月ほどの時点での単月黒字化が既に見え始めていた。パリのクラフトビールの名店でのイベントにはフランス人が大多数で100人が集まり、数十リッターのSAKEがあっという間に空になって足りない、ということもあった。現地の有力メディアやテレビ取材も受けるようになり、このままいくとどこまで伸びるのか?と逆に生産が追いつかないような状況だった。フランスで、いやヨーロッパで最も飲まれるSAKEになるのも時間の問題のように感じていた。

2020年3月~5月:コロナの波、デジタルシフト

そんな中で、3月16日からの1週間のフランスは本当に恐怖を覚えるような変化に見舞われた。コロナウィルスによる感染が一気に拡大して、マクロン大統領の宣言により、本当に1週間の間に学校閉鎖・飲食店閉鎖・外出制限まですべての措置が2日に1回くらいの緊急会見で発表されていった。そして、10名ほどのスタッフを抱えるWAKAZE FRANCEの醸造所「KURA GRAND PARIS」の現地での売上はわずか1週間の間にゼロになった...

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結果、その1週間で大きな方針転換を迫られ、日本向けの輸出分と現地でのオンライン販売分のSAKEのみと生産縮小を余儀なくされ、現地スタッフも未だに4名は一時休業中としている。また、現地での資金手配など緊急措置も取ってすぐに日本に飛び、日本側もコロナの影響が出始めた中で資金手配や配置転換など大きな変革を実行して、またフランスにもどった。

ただ、不思議とコロナの中でフランス現地でのB2Bの売上がゼロになっても、大きな不安を持ったことは無かった。それはそもそも、日本ではオフラインでの販売が減ってもオンラインが巣ごもり需要もあって伸びていてダメージが特定の厳しい業界に比較すると限定的だったことや、昨年のパリの蔵立ち上げでの経験もあり少し「逆境」のようなものに対する感覚がマヒしているのもあるかもしれない。

ただ何より、メンバーと集まって話すときに、経営者として現状共有と方針を示すとき、だれも落胆が見られないというか、むしろ目に炎を湛えていて、1人1人から「やってやるぞ」という強い魂を感じることができたからだと思う。日本もフランスも、素晴らしいメンバーと共にこの危機を乗り越えていけることに、何の迷いも不安もないことに心から感謝したい。

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そんな話を弊社のデザイナーにしたら、上のとてもエモい絵を描いてくれた。どんな窮地になって、大きなダメージを受けて更地にされても、希望を持ったメンバーが、そこに種を蒔いて芽を育て、仲間で助け合いながら、未来を創っていく。

今、ちょうど日本だけでなく、フランス側でもオンラインでの個人向け販売が3か月連続で毎月2倍ずつ増えるという急成長を見せていて、Afterコロナ・Withコロナの時代にはまた新しい世の中の在り方に合った形で、このチームと共に会社を成長させられると確信している。

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ここまでが、長くなったがパリでの蔵の立ち上げに至る経緯だった。海外で、フランスで日本人が事業をやるのは、日本でやる以上に数多くのハードルがある。それは覚悟して臨んだこと。

そんな中で、フランス人でも特にパリジャンがよく口にする言葉が”C'est la vie (それが人生さ)”、つまり、うまくいくことばかりじゃない、人生は思い通りにはいかない、ということ。フランスで事業を始めて、何度その言葉を口にしたかわからない。”C'est la vie, la vie continue (それが人生さ、それでも人生は続く)”。

酸いも甘いもひっくるめて人生である、という言葉はパリで試行錯誤しながら造るWAKAZEのSAKEの名前にぴったりだと思ったし、味わいとしても「甘酸っぱさ」を強調されているのは、そういった背景ともマッチしていると思う。

このSAKEはいろんな意味で今までの”日本酒”とは違うから賛否両論あるだろうとも思う。実際、いまだに最終的な電気容量拡張工事が終わっていないせいで、まだ冷却系統が機能してないためサーマルタンクの冷却が使えず、ダキ樽に氷を入れてタンクに投下して冷やすなど、ただでさえ硬水・低精白米で温度コントロールが難しい中でそれに輪をかけて難しい環境で造っているというのは事実だ。

ただ、歴史上初のパリ近郊エリアでの蔵を立ち上げ、杜氏の今井を筆頭に、フランスでメンバーが様々な壁を乗り越えて造ったこのSAKEには、単なる味わいや香りだけではなくて、様々なストーリーが詰まっているようにも感じる。変わりゆくパリの街と同じように、進化を続けていくのがSAKE "C'est la vie (セラヴィ)"。これからも常に挑戦を繰り返して、世界中の多くの人に楽しんでもらえるよう、SAKE造りを通じてワクワクを届けていきたい。


最後に、宣伝として本日5月20日18時より、「第2回 C'est la vie販売」を開始したので、下記にリンクをシェア。第1回とはまた少し違った表情を見せてくれるC'est la vieを、ぜひお楽しみあれ!  ↓↓↓↓↓↓↓↓

https://www.wakaze-store.com/products/parisake-cestlavie





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