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「建前」の機能と長いレンガ

人権と基本的自由、そして民主主義という近代の発明は「建前の社会」を作ったとぼくは思っている。

それはロジックで成立するものではなく、痛みと悲しみの果てに生み出された願望の物語で。木彫りの仏像に近い。仏像を皆で尊重するという行為と営みが本質であり、仏像の重要な機能だと思っている。

だから、「あれはただの木なんだぜw」とか「しょせんは建前じゃないか」というツッコミ自体が成立しない。DaiGoのような声高なツッコミを見る度にぼくはいつも不思議に思う。

その建前が重要なのだし、いわば不可侵条約的な意味がある。権力と個人というフレームでも、世界の価値共有においても。

ぼくたち人間はセルフィッシュでグロテスクな存在だということはこの数千年で嫌というほど分かっているわけで。

そんなダメダメなぼくらが失敗を重ねる度に「もっとマシになりたい」「虐げるのも、されるのも嫌だ」の願いから生まれた目標に、「クソくだらないw」と冷笑するのは確かに本人の自由ではある。

ただ、人の成長とは何度も間違えて、痛い目にあって、学んで、少しずつ獲得していくものだと思っている。その際に「建前」はとても機能する。

例えば、人を貶すのはダサいと思うからぼくはやらない。最初から完璧人間だからではない。なりたい人物像があって、今の自分はそうではないから目指す。

人権と基本的自由、そして民主主義という近代の発明はそれと同じだと思っている。ぼくたちはセルフィッシュでグロテスクだから「建前」が必要で、それを何とか実現しようとする営みが主体になる。
その建前について、「建前じゃんw」というツッコミは間違いじゃないけれど、とても幼稚に見える。

冷笑するのもその人の生き方だけど、ぼくは「建前」を実現しようとする人たちの一人でありたい。長い長いレンガを積む一人に。


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