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他者をコントロールできると思わないことが全てのベース

こちらのツイートに感銘を受けました。

わたしは言語学の先生が言ってた「もし言語がコミュニケーションツールとして作られたものならば言語によるコミュニケーションがこんなに困難じゃないはずなんだよね」を胸に生きています。

盲点でした。なんて素晴らしい問い。

「言葉や定義で他者を制御できる」
「コンテンツで他者を統制できる」
「正確であるほど他者を管理できる」

日常的にやらない人ほどこの思い込みが強い。コンテンツ支援に関わる者としてこの幻想の打破に毎回苦労するのですが、なぜこんなにも呪いが強いのかと訝しんでいて。上記のツイートに考えるヒントがありそうです。

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そもそも「他者をコントロールできる」という思い込みや幻想や呪いから離脱できなければコミュニケーションは機能しない。その呪いの根底には他者への同一性や所有感があるはずで。これは意志の力で離脱しなければどうしようもない。

娘がいる父親に「彼氏ができたら心配でしょ?」といった軽口が日本文化ではデフォルトであるけれど(ぼくもよく聞かれる)、このセリフが流通している時点でどうしようもないと思っている。それは「親だから仕方がない」とかではない。親だからこそ意志の力で離脱しなければならない領域で。自分の子は純然たる他者であり、他者はコントロールできないしすべきではないという立脚点を自分の力で自分の意思で構築しないとお話にならない。それが親や大人の条件だと思っているし、話はそこからなので。

「我が子は他者じゃない。愛おしいと湧き出る気持ちは理屈じゃない」とたまに言われるけれど、他者である我が子を愛おしく思うことは何も矛盾しない。むしろ自己同一視している我が子を愛おしく思うなんてほぼ自己愛と変わらない。自分と他者の線引きもできていない自己愛に胸を張ってどうする。自己同一視していない他者である子に自分を差し出せることが特別なのであって、理屈を超えたスペシャルな他者として家族は存在する。ぼくはそんな風に思っています。とにかく、他者をコントロールできると思わないこと。それが一番大切。コミュニケーションにおいても仕事や人生においても。子育てにおいても。

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仕事においてとにかく大嫌いなのが「仕事/上司/顧客だから従え」といった指示です。心の中では「それで他者が動くと思うなよ!それは無能者の命令なんじゃあ!」と叫んでいますが実際は黙って離脱します。このマインドは「親だから/国だから従え」といった形に容易に転換できます。仕事でそういう発言をする人は家庭でも同じような態度を子どもにするのだろうし、政府が決めたことだから仕方ないじゃんとすぐ鵜呑みにするんだろうな…と妄想します。

人はコントロールできないという大前提に互いに立った上で、「それでも動いてもらうにはどうすればよいか?どんな設計が最適か?どうしたら組織やチームのベネフィットが最大化するか?」を考えることが大切で。コンテンツも同じことだと思っています。どんなに一生懸命コンテンツを作ったとしても基本的には他者に届かないし、見向きもされない。それを大前提にした上で、「それでも届けるにはどうしたらいいか?振り向いてくれる人は誰か?どうしたら1%でも心に留めてくれるか?」を考えることが重要です。作ったから終わりじゃないのは勿論だし、作ったから見てくれるだろうは大いなる勘違いなんですよね。それは「仕事/上司/顧客だから従え」とほぼ同じです。この幻想から脱却することが実務的な成果においてとにかく大切だとぼくは思っています。


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