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平等に体験できない季節

死は、遍く人に与えられた権利。しかしその一方で誰も体験(知覚する経験)することができない。誰もが死を知っているのに、誰もが本当の意味では死を知らない。体験したことがないから。

死は、そういう狭間のことを表す言葉なのかもしれないと、ふと思った。わかる、わからないとか、有りて、無いとか。

あるはずなんだけど、まだだれもそれを知らないという意味でダークエネルギーに近い概念ともいえる。

シュレディンガーの猫のようでもある。観察しなければ猫は生と死の重なり合いの状態にある。死という観測できない現象もまた、なにかとなにかの重なり合いの状態を表す。

反意語の生は観察とも言い換えられる。人間存在は単独で現象しない。人間による観察によって人は人と成す。観察され、生まれ、観察されず、死ぬ。

そして恐らく、観察とは目に見えるものではない。心拍の停止を僕らは見えない。モニター越しに、あるいは人の言葉から、それを間接的に観察、知覚している。

誰もがいつまでも「死」とされている状態量を観察しなければ死は生との間を浮遊し続ける。

例えばブラックホールに人が吸い込まれると事象の地平面で観察者から見ると永遠に停止するが、本体は既に粉々であり、これは観察者的「生」と主体的「死」が重なり合っている状態にある。

孤独な睡眠時も僕らはその狭間にいる。起きて意識を用いて観察すれば生きているが、誰にも観察されず眠り続ければ死んでいる。

心配なった誰かが部屋に入ってきて脈を測り動いているのを確認したら、生きているという観測になりそれが現象化する。

春から夏に変わるのに具体的な境界線はない。春は少し夏であり、夏は少し春なのだ。生もまた、少し死んでいて、死も少し生きているのかもしれない。

死はぼくらがまだ知らない季節のことなのだ。という奇説で深夜の思考をここらで閉じておく。

「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。