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東京タワーを3Dプリンタで1時間で作れるようになったとき、1日に24塔生まれる東京タワーの中から、オリジナルを指差して「あれだけは人が作ったものです」という時の信憑性は如何なるものか。

既にあらゆるコンテンツがAIで自動生成されているけど、そのなかで「これは人が作ったものです」という証明印鑑的な技術やサービスってもうなにかあるのだろうか。

例えばこのnoteも自分が書いたものなのか、ChatGPTで出力されたものをコピペしたのか判別する技術や視点(現状では多少AIっぽさが感じ取れるものの)はないわけで。

まぁ著作なる概念自体が承認欲求溢れた文明の思春期みたいな近現代における一時的なブームだったという帰結もありうるが、これっていずれ歴史そのものを無意味化することにもなるんだろうなぁと思う。

例えば、源頼朝が書いた手記だって、筆記解析トレースして何百年前風の紙質、筆質にできるだろうから、それを石碑の下に埋めておいて発掘させたりとか、現存する歴史書全てコピペしてそれぞれに偽の歴史を追記して、改訂版として大量生産して流通させたりとか、これまで証拠として扱っていた様々な圧倒的な処理速度と生成技術で簡単に突破されていく。

人の寿命なんて本やメディアに比べたら僅かなものだから口伝なるものも、いずれ都市伝説程度にしか扱われなくなるだろう。

更に言えば、この世界に人がいることの証明って、果たして生成可能なのだろうか。

既に2010年時点でニューヨークタイムズの通常号の情報量が、17世紀の平均的なイギリス人が一生の間で手にする量を超えていると言われるほど、指数関数的に増加してきた情報量も、今後2、3年でその成長速度とは比較にならないほど桁違いな生産が可能になり、人類がこれまで手作業で作ってきたあらゆる文章、絵画、ソフトウェア、工芸、建築、ランドスケープ、哲学、生活様式、全てが膨大なmade by AIに埋め尽くされていく(塗り替えられるかは別の話)

東京タワーを3Dプリンタで1時間で作れるようになったとき、1日に24塔生まれる東京タワーの中から、オリジナルを指差して「あれだけは人が作ったものです」という時の信憑性は如何なるものか。

とは言え僕らはコンテンツの作成を実績としてだけでなく、そのプロセス自体に価値を見出すことができる。100均で買える湯飲みを何日もかけて手作業で粘土から整形して窯で焼いてつくる体験が未だに存在しているように、つくることは楽しいことであり、楽しいことそれ自体が重要だという価値観を持つことができる。

だから、何を作ったって無駄なんかじゃない。何を作っていても楽しければ、それでいいのだ。また、その成果物はAIの餌となり(AIを含めた)人類のクリエイティブに帰依していく。そうやって分かち合うことを喜べれば、それでいいじゃないか。

人権宣言以降からか個々が所有しているとされてきた命すらも、自我を掴んで離さない意識すらも、そしてそれらをホールドしてきた故に抱え続けてきた不安や恐れも、いずれただ流動的なエクスペリエンスとして飲み扱われ、死を超越した生命観を獲得してゆくことになるのだろう。


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