見出し画像

3.11に寄せて

 記事については仕事が立て込んでいることもあり、滞っていますがこればかりは書いておこうと。

仕事柄子どもたちと触れ合うことが多い。その中で気がついた事がある。それは今の小学生となるともう半分以上は3.11を経験していないし、していたとしても記憶にはないくらいの年齢だったということである。

10年間というこのタイムカプセルは私達に何を伝えるのだろうか。

別に反原発だとか、いやいや原発は売っていかないと。右だの左だの言うことはしない。だけども、もう一度10年前に立ち返って自信の経験や考えたことを知人や家族と話すことがとても大事になってきていると感じる。

例えば、私の爺さんの話だがその世代の人は須らくに「戦争」というものを経験していた。そこから紐付けて色んな人と話をしたり、酒を酌み交わしたりしていたという。その中で私のじいさんは飛行機の整備をしながら終戦を迎えたので、戦争には参加してなかった。むしろ、そのおかげで自分が生まれたと考えると自分の命が誕生したこと自体が偶然の産物であることを再認識させられる。

話を戻そう。この様に戦争以後みんなが共通して経験した十代の頃の出来事は今の20代には無かっただろう。たまごっち、ポケモン、プレステ、i pod、i phoneといろんな流行りものはあったが否応なくみんなが体験せざるを得ないという大きな事件というものはこの3.11くらいだろう。今の70代以上における「耐え難きを〜耐え」の玉音放送並みの出来事だ。

どんな地域に生まれついていようと、この2011年3月11日に物心がついていた人にとってこの日は特別な日となった。

皆さんはどんな形で地震を経験しただろう。

私はバンドの練習スタジオで閉じ込められそうになった。

そこから脱出すると電柱は揺れているわ、電車は止まっているわと日常が一瞬で非日常となった。東北地方に住んでいた人にとってはそんなこと、、と思われるだろう。だからこそ、そこで経験した人たちに思いを今でも馳せる。

そこから、自分はこの地震というものを自分の中にどこか抱えながら生きている。別に、どうにかしたいとか、誰かに伝えなきゃいけないとは考えてはいない。ただし、この時ほど自分が「死」に近づいていた時は、無かったから、これは何かに残さないといけないと考えるのだ。二番目に「死」に近づいたのは酔っ払いすぎて自分がどこにいるかもわからない真冬の公園で帰らなきゃいけないときでしたね。アホですみません。

そんな感じで皆さんもなにか考えたり、思い出したりしてもらえる記事になればと思います。それが悪いことだった場合はすみません。ただし、それこそ自分の考えを伝えたいっていう原動力なんじゃないかと最近は考えます。

では、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?