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正岡子規「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」の独断偏見解釈

この句も大変有名ながら、えつ、だから何!と思いませんでしたか?

ただ、事実を述べているだけ、にも読めます。

柿、くえば、鐘、なる、法隆寺と分けれますので、順番に見ていきましょう。

「柿」は秋の季語なので、秋だというのは分かる。それだけで物寂しい感じが出ますね。
更に柿の色でなんとなく夕方な感じがします。
柿じゃなくて、みかんやリンゴだったら、受ける印象変わりますよね。
柿の方が断然渋い感出ますよね!

「くえば」はどうでしょう?
柿の後なので、食べることは自然ですが、買えばやもげばや切れば等、色々な動作がありえる訳ですが、一番自然な食べるという行動です。
なんだか、ここまでは、ありふれた普通のことを書いてますね。
まぁ、柿を選んだところに、秋の情緒は感じますが、、、。
食べるではなく、突拍子もない動作が続いたら、それは面白いですよね。
放れば、みたいな!
なんでやねん、と突っ込みたくなるような行動が、欲しかったですね。

続いて鐘です。
お寺ということですね。
「柿くえば」までは自分の動作ですが、「鐘」で外に目が向きます。

「鐘がなるなり」で鐘はやはりなるんですね。鐘が落ちる、ではなく、普通になるです。これも事実なのでしょう。新鮮味は受けませんよね。

最後、「法隆寺」です。
これは興福寺や南禅寺じゃ駄目なんでしょうか?事実を書いたから法隆寺だっただけで、南禅寺の近くで柿を食べていたら、南禅寺だったのでしょうか?

法隆寺は清水寺と同様に極めて有名なお寺ですよね。
更に法隆寺には聖徳太子がイメージで紐付きます。
ここで一つの疑惑が生じます。

この句が有名なのは、誰もが知ってる法隆寺だからなのではないか?

これがマイナーな(失礼!)お寺だったら有名になったでしょうか?

まぁ、柿くえばという近景と鐘がなるなり法隆寺という遠景がクロスすることで、立体感を感じますし、秋の夕暮れの情緒も感じますが、新たな感情に出会わせてくれる句では無い気がします。

事実をそのまま詠んだ。
もちろん沢山の情報の中から、選んで繋げている訳ですが。

結果、個人的な独断偏見では、法隆寺だから有名な俳句となった感が否めない!ということでした。

正岡子規さん、すみません。

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