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第一話 曲線

仙台市を走る地下鉄東西線の途上にある国際センター駅を降りて北へ30分ほど歩く。一級河川の広瀬川と直交する澱橋を渡り、私立尚絅学園を横目になおも進む。某騎馬像に並ぶ仙台市名物ともいうべき細い歩道を注意して抜けると、県道31号線に差し掛かる。今回の目的地の書店「曲線」はもうすぐである。

この書店が「入り組んだところ」「込み入った場所」にあるという噂はかねてから聞いていた。しかしその桃源郷っぷりは群を抜いており、注意してもなお見つけにくい。実は以前にいちど、地図に頼らず店を訪れようとして敗残したことがある。「スーパーマーケット西友の近く」としか認識せずに探したから当然といえば当然なのだが。今回は潔く地図を参照しながら店を目指した。

西友前に立ち地図を確認し、端末をリュックに仕舞う。四方を見渡し、こっちか、と見切りをつけて住宅街に分け入る。数分歩いても目印が見えてこないので地図を開く。全くの見当違いの方角にはるばる来てしまっている。あれ、と虚を突かれる思い。狐に化かされた気持で西友まで引き返す。地図を開いてもう一度確認、西友前を横切ってまた歩き出す。目印の雑貨屋を見逃さないよう目を皿にして進む。そしてふたたび数分、醤油屋や七十七銀行を過ぎてもなお雑貨屋が見えない。嫌な予感がして端末を起動すると、またも見当違いの方角に来ている旨を地図が訴える。あれ。デジャヴ狐の嘲笑を耳元に聴きながら県道31号を戻る。
地図を入念に読み込んでから土地の起伏激しい住宅街にふたたび分け入り、地域住民の指示を仰ぎながら恐る恐る私有地らしきグレーゾーンを冒し「曲線」に着く頃には、雪中にも関わらず汗ばんでいた。なんたる桃源郷!

黒塗り——だと思ったが公式サイトによれば紺色に塗り込められた長屋に設けられた木製の二重扉を抜けて神妙に入店。高い天井とゆったり確保された動線が目に飛び込み、「広い」とつぶやく。店内にほかに客はなく、木琴を綿で叩くような仄かなサウンドの音楽がかすかに再生されていてたいへん静かである。オーナーだろうか、小柄な女性に「こんにちは」と挨拶される。お店の人が「いらっしゃいませ」以外のセンテンスを使うとびっくりする性分なので、「あう」とくぐもった返答で濁してしまう。広い・静か・こんにちは、ああ、緊張する三拍子が揃った。

公立美術館を歩いているような重苦しい気持で書棚に向かう。大丈夫か、楽しめるんかな、と不安に駆られる。整然と並べられた書名に虚ろな視線を向ける。おや?笹井宏之。三十一文字の制約があってなお自由に歌い上げる歌集『えーえんとくちから』の笹井。おや?カイヨワの新訳『石が書く』。おや?面白いフォントを用いた装幀の本。おや?真っ黒い紙の束に銀色の文字で詩を……おやおや?

詩歌を特集する棚やテーブルを眺めただけで、無数の「おや?」が明滅し、緊張性の息苦しさはどこへやら霧消した。どの一冊を見ても、店主が選り抜いた逸品だという自信の囁きが聞こえてくる。自費制作らしきものもあれば知られた大出版社のものもある。しかしみな良い声で歌いかけてくる。商品間の間隔を広くとったり、似た装幀どうしを近接させない配列の影響もあるのだろうか。歌がよく聴こえるし、慎重に耳を傾けていられる。ふむ、店内音楽が綿木琴なのも頷けるな。

賑やかだから良い、とは限らない。

詩歌の豊かさを満身に浴びたので意気揚々と他の棚も見て回った。
おや?円城塔の推薦文が付された真っ黒デカ帯の短編小説集『月面文字翻刻一例』。金文字で題名を記す装幀の仕方にまず胸を打たれ、ぱらぱらめくってさらに胸を打たれ。月を彫る、とな。心臓が持たない! おや?香山哲の『ベルリンうわの空』三部作に『プロジェクト発酵記』まで。三作目だけが未読だから欲しい! おや、『人類堆肥化計画』……エヴァ好きの琴線をびいんと震わせる素晴らしい題名の本。猥雑でありながら生命の始原を想わせる表紙の画にふむふむ。ここでもぱらぱらめくって胸を打たれ。清貧と結びつけられがちな農村のイメージを刷新する書か。ああ、なんど胸を打撲したら気が済むのやら。おや、ミシマ社の本もいろいろ。利他、気になってます。動悸動悸。おやこっちには、おや、隣りには……
火を点されたるマゾヒスティク・オヤオヤ・エンジンは、もはや止まらないぜ。

入口から見て左手には、靴を脱いで上がることのできる一段高くなったスペースがある。ここには他のエリア同様に書棚が立ち並ぶが、面白いことに写真の展示場も兼ねている。時期に応じて展示内容も変わるんだろうか。スナップショットが壁面に散りばめられている。平穏な日常を切り取ったもの、ありふれたものを写したものの並びにJアラート宣言下のテレヴィを真っ直ぐ撮ったものが貼られていて、複雑な印象のモンタージュとなって気分に迫ってきた。生活の地続きにあのミサイル恐怖があるということ。逆に、死神の影が兆しても生活は続くということを想像。

展示をじいっと見つめて目先が変わってから、ふたたび書棚回り。
このスペースには画集や写真集が多い。アッ、柚木沙弥郎。アッ、坂口恭平。ワッ誰の作品だろうこれ、武田鉄平。アッ、デュビュッフェ。ヌワッ、塩川いづみ。アッ、ヒャッ。
ここにはほどよい柔らかさと高さの椅子があったので、ゆるゆる座り込み時間をかけて読み耽った。誰かが描いたり写し取った風景に身を泳がせるうち自分のなかの硬直した何かがでろりと溶け出すのを感じた。
書籍のほかにCDや手帳、スケッチブックも取り扱っており、滅多にスケジュールのメモやデッサンをする習慣のない僕でも眩暈がするような良質なものだった。
客の体調や感情をここまで自在に操れる店主の審美眼と設計力には脱帽である。

さて。顔が熱くなるほど悩み悩んだ末、二冊の本を買った。
香山哲『ベルリンうわの空 ランゲシュランゲ』、そして荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』。古書の取り扱いもあるとはいえ、「曲線」は基本的に新本を定価で販売する店だ。だから二冊でも大学生の懐には重大事。丁寧に読み込もう。

二冊。購入時に添えられた特製栞とともに

「こんにちは」で入店早々僕の肝を冷やした女性と二、三言語らう。
話してみて、言葉少なだからといって人情味も乏しいとは限らないなと実感した。
再訪を熱い口調で誓って、退店。玄関から伸びる、水っぽい綿雪が降りしきる石畳を軽やかに跳ねながら、大通りへ出た。ここは県道31号線か……おや?

住宅街ラビリンスから必死にアクセスしなくてもいいと気づく、いまさら。
なにも私有地を通らずとも「曲線」はあなたをお待ちしております。水曜定休。



I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)