例の川崎の事件について意見を求められたので

「日本でも大変な通り魔の事件があったみたいですね。
犯人は大人の引きこもりのようですが、ゆーきさんはああいう事件をどう思いますか?」

海外にいた時に知り合った日本人カウンセラーから連絡がきた。

もちろん、例の川崎の小学生とその保護者が襲われて亡くなった(加害者も自殺)事件のことだ。

どう思うか聞かれても、人並み程度の感想しか出てこないと思うが・・・

えーと、わざわざぼくに意見を求めてくれる人がいるということで、
自分なりにニュースをざっと読んだ上で、できるだけ建設的に(感情論で「悲しい」・「かわいそう」・「一人で死ね!」ではなく)考えたことをまとめてみた。

まず、僕が目を通したメディアが報じていることが本当だとすると、この事件のキーワードは、
1.「通り魔」2.「自殺」3.「(大人の)引きこもり」4.「複雑な家庭・生い立ち」
といったところだろうか?

何かもっと大事なポイントが抜けているような気もするが、
とりあえずこの4つに焦点を当てつつ思うところを書いていく。


1. 通り魔による事件がなぜ起きてしまうか (どうしたら事件が起きなくなるか) について

これについては、自分が色んな人から・所で、見聞きした範囲で考えると、
場所や時代を問わず一定数そういう行動に出てしまう者がいて、
誰しもそういう事件に巻き込まれる可能性があると思った方が良さそうだ。

誤解を招かないように、生まれつき欠陥のある人がいるのではなく、
後天的に生きていく過程で何かのきっかけにより、猟奇的な行動選択をする人も出てくるのだろう。

通り魔の育った環境や直接の動機について、
ざっとググっただけでも犯罪学の専門家が書いた論文から個人ブログまで色々あり、
一概にこうだとは言えないようだ。

精神疾患や社会的に孤立している人は早期発見して社会的に保護するのが、本人にとっても周囲の人にとってもベストな選択だという主張もあれば、現代社会の閉塞感が原因という人もいれば、逆に過保護すぎることを問題視する人もいる・・・

参考までに、客観的なデータを用いている記事で読み易かったもののリンクを貼っておく。
↓ ↓ ↓

2.死にたいなら「一人で死ね」ということ

これは誰に向けて言うのだろうか?

そもそも自分が死ぬからと言って他人を道連れにしてはいけないことぐらい、
理屈の上では誰でも分かることである。

また、それを善悪の判断がつかないところまで追い込まれている人に言っても通じないことも、
冷静に考えれば分かることである。

最近の世の中は暴力団や俗にいうヤンキーの力が弱まり、一見した所でいい人と悪い人が区別つかず、誰でも話せば分かるといった風潮があるが、話しても分からない、分かろうと期待しても解せない「状態」の人もいる(もう一度言うが生まれつきでは無いし、人間そのものの質が悪いわけでは無い)。

なので、僕たちが事件を教訓として今後努めてすべきは、
身近な人がそこまで追い詰められる前に気づいて助けること、伝えるべきことを伝えること、ではないか。
極端な行動に出ようとする前に、
「自分は味方だ」と意思表示をしてくれる人が一人でもいれば、
こうした事件を防げる確率を上げられるだろう。

3.大人の引きこもりについて

そもそもこれは「引きこもりによる事件」のカテゴリーに入れるべきなのか?
メディアの報道の仕方に偏りはないだろうか?

生前の本人の生活について、確かにテレビでは「引きこもり」が強調される傾向にありそうだ。

しかし週刊誌の中には、
「麻雀が得意で雀荘になってかなり稼いでいたが、20年ほど前になぜか実家に帰り引きこもりになった」、
「身内が容疑者を最初本人だと認識しなかったのは怪しい。(大手メディアは)何か隠している」
(=つまり「引きこもりが無作為に人を刺した」のではなく、もっと別の意図を含む犯罪であり、バックには犯罪組織がある)、などという情報も出ている。

これ以上そこへ深掘りしないが、ここで重要なのは、
何れにせよ「引きこもりが殺した」ことにすれば、世の中が納得させられてしまうことだろう。
それだけ現代社会において、(大人の)引きこもり(・無職の者・社会的に孤立している者)に対する目は厳しい、というか根強い偏見があると言える。

しかし、事件以後議論が巻き起こっているように、
引きこもりは全国で100万人以上とも言われる程ありふれており、解決が難しい。

冷静に考えれば、「外に出たく無い」・「人と会いたくない」感情は理屈ではなく、
一種の生理現象みたいなものだと思う。

そういう精神状態の時は、社会が、全ての人(自分自身を含む場合あり得る)が、
生理的に受け付けないのだろう。

だから、ゲームやパソコンの世界に没頭する者もいるし、あるいは週刊誌の内容が本当だとしたら、
この事件の容疑者は麻雀という非日常的な空間に居場所を求めたのかも知れない。

何れにせよ、引きこもりの傾向が見られる人が自尊心を保ち、他人と関わって社会生活をしていくためには、本人が自ら状況を打開できるきっかけを見つけ出す必要がある。

また、周囲の人はそのサポートするためにどう働きかけるかを考えたり、話し合っていくべきだと思う。

ここまで考えついたことを書き出してはみたが、僕は引きこもり支援に関しては全くの素人だ。
アドバイスすら求められたことはない。

それでも、自信が今ひとつ持てない学生や大人たちの話を伺ってきて経験上言えることは、
「まずは本人の話をちゃんと聞く(「聴く」?)」ことに尽きると思う。

というのは、「引きこもり」から抜け出さないとダメだなどとレッテル貼りをしたり、
「こうしなければいけない」「普通はこうするものだ」と、
一般常識や解決策そのものを押し付けてしまうのは余計に刺激してしまうリスクが高い。

本人は部屋にこもっている現状を悪いものだと思ってない、ないしは思わないようにしているかも知れない。本人の話を聴いた上で「提案」をしてみる。その後本人がその提案を受け入れるか待ってみる。しばらくしてまた話を聴く・引き出す・・・その繰り返しだろうと思う。

次に、視点を身近な人から社会全体に移すと、
引きこもりに限らず転職や育児や介護、病気だったとしても仕事をしない、
無職・休(求)職期間など、働かないことに対する偏見を更になくしていく必要がある。

言い換えると、一人の人が一生の間に所属や身分、置かれている状況を変化させること、場合によっては本人の意向に反して状況が変わってしまうことを、もっとごく普通のことなんだという認識を、僕たちは持つべきだと思う。それが、昨今の教育系の人が好きな言葉でいうところの違い・個性を認め合うこと、人の失敗や欠点を許容するための土台にもなり得るのではないか。

とは言え、以前と比べたら、世の中において立場の弱い人でも生きやすい社会にする為にどうすべきか社会的関心が高まってきていることに、多少は希望を見出したい。

ようやく行政や公的の支援機関も、最近は制度やサービスの基準を見直す姿勢を見せるようになってきたが、予算が足りないことが一つ大きな難点だろう。
仮に公的機関に回せる予算に余裕がもう少しあれば、社会的弱者に対するセーフティネットを見直し充実させやすくなるとは思う。

それを言ってしまうと、大抵の制度的・物理的な問題は国の公的予算がマシになれば改善するだろうし、社会的弱者に対する偏見や自分に自信が持てないなどの精神的問題は、メディアが偏った情報を伝えなければ解決しそうなものだが、そうはいかないところに難しさがある。

だから個人が微力ながらSNSで有志の協力を求めたりしながら、やがてボランティアやNPOなどの組織を結成したりして、地道に共感してくれる人を集めていかないなかなか社会は変わっていかない。
今回僕はとりあえず思っていることを文字化はしてみたが、もっと勉強されている方に色々教えて頂きたいし参考になりそうな情報があれば更新していきたい。

4つ目のキーワード「複雑な家庭・生い立ち」については、近いうちに記事を分けて書くのでお楽しみに!


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