薄汚れた優しさを抱きしめる


布団にこのまま沈み続けて液体になって溶けてなくなってしまいそう。無痛なんやったらそれでもいいかなって今日は思うけど、SF映画ではデモゴルゴンがやられた時はきちんと成仏したみたいに蒸発するのに、自分はベタベタな液体だけになったらどうしよう。とか誰が後片付けするん。とか意味のわからない事をずっと考えている。枕の方に目を向けると、昔母ちゃんに買ってもらった犬のぬいぐるみがこちらを見ていた。母ちゃんと近所のファミレスでご飯を食べた後に、誕生日は何が欲しい?と言われて、レジの横に陳列されてあったぬいぐるみを指した。ゴールデンレトリバーの中でも、一番表情が優しそうな子を選んだ。

名前はラッキー。その横にもう一匹いるのは、その一年後のファミレスで買ってもらったクッキー。その後ハスムターを買った時は、ハッピーと名付けました。我ながらネーミングセンスの圧倒的悪さ...謎に韻を踏みたがるとことか余計にわけわからん...楽しい感じにしたかったのかな...それでも愛着は充分にあったので、自転車のカゴにラッキーを乗せよく近所の公園に連れて行きました。ある日事件が起こって、どうしてもブランコの楽しさをラッキーにも味あわせたいと思い、隣のブランコにちょこんと乗せて少し揺らしてあげてみた。案の定、落ちた。昨夜作った水溜りがブランコの下には溜まっていて、そこにラッキーは落ちました。

号泣しながら泥塗れになったラッキーを抱えて急いで家に帰ると、家に着くなり母ちゃんが何故か笑いを堪えながら真剣にラッキーを綺麗にしてくれた。中々完全には綺麗にはならず、私は沢山謝った。それ以来外に連れて行くのは辞め、一人で公園で遊ぶ事にした。

そんな娘を見て気を遣ってくれたのか、母ちゃんがラッキーでおままごとをしてくれるようになった。まだ私も小さかったけど、腹話術をしてくれているという事くらいはなんとなく分かっていてそれでも本当に喋っているみたいで、やっと話せた事が嬉しかった。私のせいでこんなに汚くなってごめんね。と言うと、ラッキーは、「よくもこんな俺様を泥だらけにしてくれたなぁ〜汚ねぇじゃねぇかよ〜」と優しく頭を蹴ってきた。頭の中のキャラ設定とは随分かけ離れていた。何かある度にラッキーに話しかけるようになり、母ちゃんに直接相談するより何だか照れ臭くなかった。勉強のこと、好きな人のこと、学校に行きたくないこと、でも家にも帰りたくないこと、何でも話した。

母ちゃんが居ない夜にも、ラッキーに話しかけたけど、母ちゃんが居ないとラッキーはずっと黙ったままだった。「あんたが寝ている間ラッキーはバレへんようにお家を探検してるんやで」 絶対にいつか見てやろうと思った。小走りで私の顔の上を歩いたり、日頃の怒りを込めて踏んづけられたりしている所を想像しただけで可笑しかった。脳裏に笑った姿が浮かぶ。昨日も今日もきっと明日も見れる笑顔で、犬の声真似を作ったへんてこな声が流れる。あれから何年経ったかなあ。私が歳を重ねる分だけ母ちゃんも歳を取っていくねや。誰かの存在とか、今ある幸せを当たり前に思ってしまう事は怖い事だし常に理解しておけば後で辛いくらいに後悔する事も、悲しみも少しは麻痺してくれるかも。だから当たり前になる事を出来るだけしないように意識してきたけど、それでも当たり前になりたい時もあるなあ。まだまだ大人になりたくないなと甘えた事を思ってしまうしばかー


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