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就活生へ。私たちは選べる。

「就活」が学生にとってキツイ理由

春から就活をはじめた。着たくないとか言っていたのに結局スーツは買ったし、学生時代力を入れたこと、いわゆる「ガクチカ」もそれっぽく書き上げたりしている。自分と向き合うことは全然嫌いじゃないし、人と話すことも得意だから、緊張はするけど面接で話すこと自体はけっこう楽しんでいる。これまでしてきたことも、話すのは得意だけど、そこに評価がなされている、という事実にふと気がついて、嫌気がさす。

業界によるのかもしれないが、「目標を持って頑張った経験はありますか」とか「周囲に影響を与えた経験はありますか」とかみたいなことを聞かれることがまあまあある。目標なんてない。ただ、好きだからやっただけなのに。やりたかったからやっただけなのに。そして、ああ、会社に属して働くって、そういうことだよね、と納得する。成果とか利益とか。それを、だるいって言うのはいいけど、それでお金をもらうのだから、そりゃ、トレードオフなのだ。成果を出す代わりに、お金をもらう。当然のこと。学生と社会人ってそこが違う。だから、自分が楽しんだ学生生活のことを具体的な目的とか、成果とかに当てはめて答えるということ、答えられるように言葉にすることって、残酷で、キツイことなんだ。

就活ってありがたいかも

就活を始めると、途端に「企業に入ること」「内定をもらうこと」が目的になる。過去の自分をアピールして、評価をもらうのだから、それでその目的が達成されなかった場合、自分は能力がない、とか、無意味だ、とかと受け取ってしまう人もいたりすると思う。私もそうなっていた時期があった。というか、今でも時々ある。でも、あくまでそれって、「企業で働く」上での勝ち負けの話であって。別に、それ以外でも生きていくことは可能なはずだ。そもそもなぜ、就活をするのか。なぜ働くのか。そこをすっ飛ばしていると(いわゆる「就活偏差値が高い人」はいらないのかもしれないけど結局どっかの節では)みんなけっこうキツくなる気がしている。逆に言えば、そこを明確にしていれば、就活のこの時間って今後生きていくことを楽にするための大事な時間なのかもしれない。

働くについて

私は、「人が働くこと」の意味って、いろいろあるけど、究極「社会が成り立つように」するためにあると思っている。この国では、資本家でない限り、個人は労働者であり、労働を提供することによってお金をもらう。そして、そのお金で別のモノやサービスを買う。でも、それは「私が働くこと」の目的にしないほうがいいと思う。「お金を得る」ことは、経済が回っていくための仕組みなだけであって。仕事をしてお金を稼ぐ、って個人にとってはほんとはどうでもいいことなんじゃないかと、考えたりする(その仕組みによって私たちの生活は成り立っているのだが)。

そんな私にとっての働くことを定義してみると、働くこととは「経験すること」と、「つながりを得ること」だ(変わっていくのかもしれないけど)。経験する、とは、できるようになることが増えること。つながりを得ることは、仲間が増えるようになること。そして、それを通じて、自分の生きたい世界をつくっていくこと(最終目的はココ)だと思う。お金、というのはそこに副次的についてくること。だから、企業に属して働くことは、私にとってそれを達成するための一種の手段にすぎない、ということになる。アルバイトでも、派遣社員でも、フリーランスでもいいのかもしれない。あるいは、社長になって、自分で会社をつくることだって考えられる。

最強の時代に生きていること

幸運なことに、この時代を生きる人たちは、仕事の働き方においても、たくさんの選択肢がある。ライスワーク(食べていくための仕事)と別にライフワーク(情熱の注げる仕事)を持つことができるし、ライフワークを掛け持ちして、ライスワークにする、ということも可能なのだ。個人が生きたいように生きれる場所が、たくさん用意されている時代。この事実を知っただけで、私はかなり救われたところがある。

私は選べる。私は、私の生きたい世界をつくる。せっかく与えてもらった人生、おもしろくしていきたい。

あなたの生きたい世界は、どんな世界ですか。

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