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みそ汁がゆずれないのは、

みそ汁の好みといえば、夫婦のケンカの種の代表格ですね。

からあげとかトンカツでケンカになったという話は聞いたことがありません。玉子焼きは時々なるような気がしますが、酒はならない気がする。なんなんでしょうね、この差は。

僕が好きなみそ汁は、シャキとした白菜がたっぷり入った塩分の利いたものです。でも、妻は「一に減塩、二に減塩」。味噌の甘みがほのかに感じられるようなのが好きで、それは僕からすれば「おダシ」「お吸いもの」に近いしろものです。

人類がつい砂糖や塩を摂りすぎるのは、進化が追いついていないためという話を最近どこかで読みました。現代の先進国では食料不足に悩むことがほとんどなくなったにも関わらず、人類の体はミネラルや穀物を探し求め続けていた時代とそんなに変わない。「食べられる時に食べなければ、餓死の危険性がある!」と判断するのだとか。

その意味では「味覚」というのは遺伝子に刻み込まれたもの、とも言えそうです。ちなみに“リアル”でないにも関わらず、エッチなビデオに興奮するのも同じ理由らしいです。

でも、思うのです。明らかに僕が白菜のみそ汁を好きなのは、小さい頃から数えきれないほど実家で飲んできたからだ、と。実家以外では白菜のみそ汁は、あまり飲みません。アサリとか、ワカメとかの方がどう数えても多い。

白菜のみそ汁を飲むと、思い出すのは古い実家の風景です。今は改築でずいぶん様変わりし、もうどこにもない景色ですが。

硝子障子の向こうから立ち込めるダシの薫り。ダシ用の昆布を入れていた高級なお菓子の缶(どうしておばあちゃんは「お菓子のカンカン」を後生大事に扱い、再利用するのでしょう)。鶴が描かれたお碗。先がちびけて丸まった箸。「白菜のみそ汁が飲みたい」と言ったら、母がすぐに作ってくれたこと、など。

そういう「味」は ホモ・サピエンスとしての私の遺伝子には刻まれていません。流行りの言葉でいえば「ミーム(Meme)」ってやつでしょうか。
ミームというのは、遺伝子(Gene)のような生物学的遺伝情報に対して、習慣やスキル、物語といった「文化的遺伝子」みたいなものらしいです。

大げさにいえば、みそ汁は「遺伝子とミーム双方を刺激する総合芸術」なのです。

なんとなくですが、食べ物によりこの「遺伝子とミームの塩梅」はちがう気がします。とんかつや唐揚げのうまさは9:1くらいで「遺伝子」に組み込まれているものです。だから、ほとんど「ハズレ」がないのかもしれません。

逆に、酒のうまさは 9:1くらいで 「ミーム」に刻まれており、思い出や物語を刺激するものという感じがします。だから、笑い上戸・泣き上戸みたいな人たちが生まれるのでしょう。

みそ汁の場合はというと、ちょうど5:5くらいで遺伝子とミームに「美味い」の記憶が刻まれているのではないでしょうか。
文化的でありながも本能的。それが「みそ汁をめぐる戦い」を複雑で面倒なものにしている原因の一端であるように思えてなりません。

みそ汁の好みがちがうことは、ある面では文化・習慣の違いなのに、遺伝子レベルで齟齬が生じ、対立しているように錯覚したり。
逆に、先祖代々の遺伝子レベルで塩を必要としない家系なだけなのに、あたかも自身の文化的背景を否定されたような気になったり。

この文化的でもあり遺伝的でもある、混合したものの難しさは、他でも見る気がします。

フェミニズムをめぐりネットではよく議論が起きていますが、女性の訴えに対して「男だって辛いんだ!」と返している答えをよく見ます。

これなども、社会文化的な文脈(ミーム)と遺伝子的生物学的文脈(ジーン)を男性が混同した結果に見えます。「男であることや、男全体が攻撃されている」と感じた男性の反発なのかもしれません。
あ、もちろん女性の側にも、社会的な文脈からの批判もあれば、直感的に「ムリ!」と思って批判する意見も混ざり合っていると思います。

この「ゆずれない気持ち」は本能に組み込まれたものだろうか、それともミームか。そういう時は、まぁ、みそ汁でも一杯すすりながら考えてみてはどうでしょう。

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