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会話を求めていた。だけど私が一番側にいてくれたんだと気づいた出来事

夫と会話が楽しく
出来ないことを
長年不満を抱いていた私

先日たまたま見てもらった
占星術でも
『心と心が結びつくような
繋がりに心が満たされる』と言われて
やけに納得した気がした。

私には私の理想みたいなものがあって

1から10まで話して
スッキリしたいと思った時
それを気持ちよく
スッキリするまで
心ゆくまで話したいし
聞いてほしい
聞くなら寄り添ってほしいし
最高なのは
話すことで
悲しみは半分
喜びは二倍三倍と
なること。

夫と会話していても
寄り添ってくれてる感じがしない時は多く
相槌も『何その相槌?』みたいのも多く
気持ちよく話せない。
ほとんどの場合
1から2、3くらいまで話したところで

話が逸れるような相槌や
納得のいかないコメントに
気を取られて
気持ちよく話せなくなるのだ

私にとって
魂が震えるような
大切な出来事があって
それを共有したいのに
夫のその反応や対応で
出来事が台無しになるような感覚

幸せや感動を二倍にできたら最高だけど
むしろ台無しになる。

何年もそれをやってきた。
たまに会話が成功することもあるが
それは夫も一緒に体験した出来事を
話すと成功することが多い

想像がつくからだろう

私の話している
夫がいない時間での体験は
想像しにくいのか
私が感じている感覚が
夫の感覚と離れ過ぎているのか
心が近くにあることが
感じられないことが多い


だから話して
『あぁ、また違った』
(寄り添ってもらえなかった、
肩透かしみたいな感じがして虚しい)
この気持ちを味わう虚しさが嫌で
大事な話は自分の中にしまうことが増えた


自分が何を感じていて
どんな感情が湧いているのかが
わからないことが増えた


こうしてブログに書くようになって
だんだんと
『自分はこんな気持ちが
湧いていたんだな』と気づけることが増えた

誰のためでもなく
自分のためだけに書くかんじ

私は一旦外に感情を出してやっと
自分が何を感じているのかが
認識できる人間なんだなと
再確認した。


だから子供を産んで
ゆっくりと自分とむきあう時間も減り
大人と会話できる機会も減り
長い間不完全燃焼の感じが続いていた


ここで出すようになって
すごくスッキリしている
頭の整理ができている感じがする


さらには変人と思われてもいいと
最近は運転している時
誰に話すわけでもなく
一人で考えたことを
誰かに話すように
言葉にするようにした。

こうしてパソコンで文字にしていても
かなりスッキリする感じがあったけど
さらに『言葉』として
外に出してみたのだ

一人で喋るなんて。
虚しくなりそう。
頭おかしいんじゃない?

そんな感じもするけど
やってみてわかったこと。

言葉にしたら
涙がボロボロと出るのだ。
自分でも驚いた


パソコンでこうして文字にしても
涙は出ないことは多い
すごく昂っている時は
涙が出ることがあるかなという感じだ


だけど言葉という『音』に乗せると
私の耳が私の声を聞いているんだね
あぁ、私の心と体って
一つだけど
それがバラバラになっていたんだ。

頭の中がグチャグチャで
整理できなくて
体はそれに振り回されていた部分も
あるのかもしれないね。

私は自分の声を
自分の耳が聞いている
この感覚を体感して

心と体があっての私なんだな
頭で考えていることを
言葉という音に乗せる
頭の中で考えているだけでは
グチャグチャしてるだけでは
それが本当はなんなのかわからないというか
音はそれを『形』にしたようなものだと思った

私の考えが形になったもの
それが言葉。音。
それを私の『耳』が聞いて
体に染み込む。

そこでやっと私の心と
体がつながった感じがした

私はそれを、これを長年
夫にして欲しかったんだなと
やっとここで気づいた。

他人にしかできないと
思っていたのだ

こんな大人になっても
こんな簡単なことが
私はわからないのか?と
ここにきたら思う

そうかもしれない
他人が私の心と体を
繋いでくれたら
私の言葉が
相手を通って
私に帰って来て
そうなると
『心のつながり』を
強く感じるだろうな。
それはとても幸せなことと思う


だけどそれが幸せだと私は
ずっとずっと決めつけて
苦しんできた。
そして理想を押し付けて
夫を苦しめてきた。

夫が私を大切にしていることは
言葉でも感じられることは
たくさんある。
行動だってそうだ。

私は私のほしい方法で
優しさを求めていた。

優しさも幸せもひとつなんかじゃない。

私は頭の中が
いつもグチャグチャで
自分が何を考えていて
何を感じているのか迷子だった
長年苦しんできた

だけど言葉にして気づいた
『私という存在が一番私のそばに
ずっとずっといてくれたんだね』

これは当たり前と言えることなのだろうか?
宇宙の歴史からしたら
私が生きているこの時間なんて
見えないくらい小さな時間だと思う
私は私で生まれたこと
ここにいること
安っぽい言葉でしか表現できないけど
奇跡みたいだと思った

心と体がセットで私だから。
形として人として生きていて
心と体がセットなんて
当たり前のように思っているけど
セットだからって
これが通じ合っているかどうかは
別の話だと思った


これって『結婚』とすごく似ているね
私と夫で夫婦なんだけど
結婚という契約の上にいる以上
努力しなくても通じ合っていなくても
分かり合えていなくたって
解約しなければ
セットなんだよね。夫婦なんだよね


毎日の生活の中で当たり前にいる存在
通じ合うことを諦めて
感じていることを無視して
伝えることを諦めて

それは夫のせいだと
あの人のせいで私は苦しいと
ずっと思ってきた

夫も努力していないわけではない
私の期待に応えたい気持ちは
いつもあるのだ
私が気持ちよく話せるように
どうしたらいいか考えて考えて
考え過ぎて何も言えなくなっている

それは思考停止だと思っていたけど
ここまできて思えば
一つの愛だということにも気づく。

話はまとまらないけど
ずっと自分以外の誰かに
求めていたなと気づいたこと。

まさか自分が自分の話を
聞いてあげることが
できるなんて思いもしなかった
会話は自分以外の誰かと
するものだと、それが
当たり前だと思っていた

誰かと話して
気づくことってある
それはとても私の好きな瞬間だ。

だけどそれが自分一人で
できるなんて
すごい発見だった。

これを読んだ人が
同じことをして
同じように行くかはわからないけど。。

もしも寂しい時や
モヤモヤした時
頭がグチャグチャになった時
誰かに話すように
一人でちゃんと言葉にして
お話ししてみてもいいかも

誰かに寄り添ってほしい
誰かに共感してほしい
わかってほしい
心で繋がりたいと
長年思って来たけど

私自身が自分で何を考えているのかが
わからなかったから
ずっと空っぽみたいな感じがしたのかも

消化不良みたいで苦しかった

自分の考えを言葉にしてみたら
否定とか肯定とか
そんな気持ち以前に
ただただ
『そうだったんだ』
『そんなこと感じてたんだ?』って
私は私に思った

これは考え事を処理するのが
上手?な人は頭の中で
一人でできるのかな?
私は頭の中ではつくづくできないと
やっとわかった。

思考も体と同じで
湧いてきたら(食べたら)
言葉や文字にして(噛んで)
外に出す(排泄)

これが自然の流れなんだね
原理原則なんだね

今まで苦しめていてごめんね
私の心と体。
それなのにずっと一番そばにいてくれて
ありがとう
当たり前じゃないよね。

続けていかないといけないと思った
方法は色々でいい。


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