恋人と宗教と、掬われたいわたし
わたしは、ひとりでどこへだって行けるし、何でもできる。どんなことも、例えば、これまで三度の転職を経験している就職先や、年々減少気味にある友人の誰と時間を共にするのか、今日の夜に何を食べるか、自炊をするのか、ひとりでべろべろになるまで飲み歩くのか。兎にも角にも、やろうと思えばなんでもできる、ひとりで。
それなのに、人生において縋れるものはどうしても欲しい。ひとりでなんでもできるのに、独りでは生きていけない。本当に恥ずかしいことだけれど、寂しくて恐怖に怯えてしまう。恋人と時間を特別多く共にしたいわけでも、常に側にいて欲しいわけでもないのだけれど、ただ、これからのわたしの生涯がひとりではないという心の支えが欲しい。
わたしは、普段編集の仕事をしていて、その現場で、いくつになっても前線で活躍している独身女性の方々を何人も見てきた。その生き方をかっこいいと思ったし、尊敬の思いも膨らんでいるのに、なのに、わたしは、ひとりで生きていく決意だけはどうしてもできない。
彼女たちにも、様々な事情や思いがあるのだろう。けれど、その真意を確かめたことはないから、わたしの目に映った彼女たちの姿を思い浮かべて書いている。とてもじゃないけれど、寂しそうには見えなかったし、むしろその逆のようにさえ感じていた。一般的にある休日を気にせず、人よりも少ない休みで働いたり、思い立ったときに海外留学に行ってみたり。まさに現代を生きる人間の生き方だと思った。逞しく見える彼女たちも縋りたいものや、縋っているものがあったりするのだろうか。
もしもこの先、わたしが独りだと確定してしまったなら、なにか新興宗教に入信したいと思っている。信じるものがあれば救われる。救われたいというか、掬われたいと思う。人に迷惑をかけない、なにか自分が掬われるものに、心を添えれたら、平穏がやってくるのではないかと思っている。
恋人と宗教はどこか似ていて、こころの隙間にぐいっと入ってきて、なにも考えていないときに頭にぽわりと浮かんで、生活の基準になったりする。底に根を張って、寂しいを栄養にして育っていく。そんな気がしてならなくて、掬われたいわたしは、どちらかのそれに甘んじてしまう弱さがある。けれど、その掬いが側に存在してくれるだけで十分に思っていて、それだけでわたしは強く生きられるのも確かなのです。
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