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一滴の雨粒として、糸を紡ぐー村上春樹『猫を棄てる:父親について語るとき』を読んで

海を越えてやって来た本

楽しみにしていた村上春樹さんの久しぶりの新刊は、日本から海を越えてやってきた。

私はいまタイに住んでいる。

そして、この本を読む直前に、私は出産した。

生後一ヶ月の娘を横に、この本を手にしている。親子の縁とはいったいなんだろう。

個人的な人生の大きなイベントをこの本とともに少し考えてみようと思った。

偶然の積み重ねでかたち作られた人間

私は今年三十になった。

大学時代から村上春樹さんの長編に親しんできた私にとって、春樹さんは少し先を行く先輩みたいな存在だと勝手に思っている。実際は三回り半も違うのだけれど。

春樹さんの生みだす物語に身をひとつで入っていって、自分の深いところに到達するような体験を何度もしてきたからだ。

その身近な先輩が、父のことを調査し、その事実と自分の記憶を頼りに自身のルーツを見つめ直す過程は、他人事とは思えなかった。

もし父が兵役解除されずフィリピン、あるいはビルマの戦線に送られていたら……もし音楽教師をしていた母の婚約者がどこかで戦死を遂げなかったら……と考えていくととても不思議な気持ちになってくる。もしそうなっていれば、僕という人間はこの地上には存在しなかったわけなのだから。そしてその結果、当然ながら僕というこの意識は存在せず、従って僕の書いた本だってこの世界には存在しないことになる。そう考えると、僕が小説家としてここに生きているという営み自体が、実体を欠いたただの儚い幻想のように思えてくる。(太字は筆者)

『猫を棄てる:父親について語るとき』(pp.90-91)

なにかがどこかが一ミリでもずれていたら自分という人間が存在しないというのは、いまの自分という結果からみれば、たられば論にすぎないかもしれないが、事実、そうなのである。

誰もが、そうなのである。
だから他人事ではない。

そう、私のこと、この子のことでもあるのだ。

我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。

『猫を棄てる:父親について語るとき』(p.96)

春樹さんは、我々は偶然のひとつひとつの積み重ねによってできているのに、それらの偶然を必然とみなして生きるのではないかと問うている。

必然であるとみなしたほうが我々は安心できる。
そうしないと、自分の存在のよりどころがなくなってしまう。

しかし、必然を遡ろうと思えば、何年も何十年も何百年も、地球の起源にまで遡れてしまうのだから、きっと我々は偶然によって生まれた存在なんだろう。

出産ーこの子を守ると決めた日

四月七日、私は子どもを産んだ。

自分の子宮から出てきた我が子を見て、自分のなかに十ヶ月も人間がいたのだと、不思議な気持ちになった。

自分の血肉をわけた子である。

そして思った。この子はなにがあっても私が守る。
ただただ、そう思って、我が子を抱きしめた。

この子が生まれてきたのが偶然だとは、到底、思わなかった。

血縁の宿命

私は典型的な核家族の家庭で育った。

サラリーマンの父と、専業主婦の母、三つ下の弟。都心からそれほど遠くない、マンションが乱立する住宅街の一角で、私は育った。

絵に描いたような、普通でありふれた家庭である。

しかし、だんだんと、その普通という悪が私を浸食し、自分が普通で平凡であることに不満をもつようになった。

両親が私に普通であることを求めれば求めるほど、私は普通でなくあろうとした。

高校を卒業し地元を離れ、行きたい大学に入り、大学院でしたい勉強をし、大学時代に出会ったタイ人のいまの夫と暮らすためにタイに移住した。

タイに移住することを打ち明けた当初は、タイに行くなら親子の縁を切ると母に言われていた。

本心ではなかっただろうが、ちっとも思い通りにならない娘に対する、最後の抵抗だったのではないかと思う。

そんな母も、時間というのは偉大で、数年をかけて、トムヤムクンが大好物になり、自分で作るようになるまでに変化した。

私が決めた道を、最終的には応援してくれる両親がいたおかげで、私はこれまで好きに生きてくることができた。

自分の思いとは違っても応援してくれるのは、揺るがない血縁のおかげなのだと、私はこの本を読むまで勝手に解釈していた。

親と子で紡がれる糸

出産後、血縁というものに特別なものを感じる気持ちが大きくなっていく日々に、この本を手にとった。

そんなこと考えたくもなかったけれど、試しに、我が子が、偶然の産物によって、私の手のなかにいると仮定してみた。

すると、自分が生まれてからいままでの記憶のかけらが集まってきた。

ささいなものばかりで断片ばかりだけど、とても具体的に。
そのときの感情や、匂いや、体温とともに。

春樹さんが自分の軌跡をたどったように、私も私なりに私の軌跡をたどった。

そしたら、なぜだか、張りつめていた気持ちが少し楽になって、ほぐれていくような心もちがした。

母がトムヤムクンを好きになったのは、絶対的な血のつながりのせいではないことがわかったからである。

たとえば僕らはある夏の日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てに行ったのだ。そして僕らは共に、その猫にあっさりと出し抜かれてしまったのだ。何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。そのときの海岸の海鳴りの音を、松の防風林を吹き抜ける風の香りを、僕は今でもはっきり思い出せる。そんなひとつひとつのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたち作ってきたのだ。(太字は筆者)

『猫を棄てる:父親について語るとき』(pp.88-89)

親と子の間に、初めから絆があるわけではない。月日をかけて、共有体験を重ねることによって、ともに築いていくのである。

血がつながっていてもつながっていなくても、別々の個体であり、人格である。親が親として、子が子として付き合っていく過程で、縁という糸が紡がれていくのではなかろうか。そしてその両端を、互いが握っているのである。

だから、糸の種類も紡ぎ方もそれぞれで、一つとして同じ家庭はないし、私がコンプレックスに思っていた「普通」は「普通」ではなかったのである。

春樹さんが最後の最後にお父様と和解のようなことをできたのも、それまでに紡がれた糸があったからである。一度手離した糸を双方が再び握ったからである。

そして私の母がトムヤムクンを好きになったのも、私と母の間に、ともに紡いだ糸があったからである。

一滴の雨粒としての責務

我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。

『猫を棄てる:父親について語るとき』(pp.96)

「無条件に、この子を守る」

この気持ちも大切に持ち続けたい。

ただし、一滴の雨水の責務としてーー自分が子として、そして親としてーー紡いでいく糸も存在するのだ。

この本は、その糸を目に見えるようにしてくれた。

大きな後悔をする前に。
一滴の雨水が落ちて消えてしまう前に。

【参考文献】
村上春樹 (2020)『猫を棄てる:父親について語るとき』文藝春秋.

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