#3 たべることが生きることを邪魔した

⇒「#2脱絶対自炊主義から」の続き

3キロのランニングをこなすとご褒美の冷水シャワーが待っている。冷水は身体から蒸気となって漏れだす熱を細胞に閉じ込めてくれるから好きだ。熱はエネルギーそのものだ。細胞に蓄えられた熱は血流に溶けて巡回し、全身の細胞が行き渡る。ベッドに戻りたい気持ちは消えていて、血流の勢いが精神に呼応されるままに、僕は朝食作りに着手する。

だけど、この日は少し違った。フライパンを振るうことなく、昨晩帰り途中に松屋で買ってきたカルビ丼弁当を電子レンジで温めて、朝食準備完了。

本当は夜食として頂くつもりだったけど、「#1通行人Aの徒歩二十分」で書いたように帰宅するなり力尽きたから食べずに寝てしまったのだ。

疲労が極大した身体は睡眠欲の化身だ。一方ランニングで覚醒した身体は食欲の化身と化す。食欲の化身は肉を一番に欲すから、僕は欲望に任せるままにカルビ丼の肉と米を掻きこんだ。すぐに飲み込むことはせずに、しっかり噛んで、ごくっと飲み込んだ。そうやってちゃんと噛んだのに、ものの5分ほどでどんぶりは空になった。

かなりボリュームがあったはずなのに満腹感は皆無だった。胃の中は空っぽなままで、しかし一方で、血流でエネルギーが巡回する感覚が走り出した。

ふと「カレーは飲み物」なんていう言葉を思い出した。これは案外的を射た故事なのかもしれないと思った。食欲の化身になると、胃の壁に無数に口ができて、舌と唾液を滴らせて待ち望むのだ。そして待ち望んだものが落ちてくると、胃酸のプールに浮かばせる間も与えず跡形もなく消化するのだ。

まともな食事は18時間ぶりだ。加えてランニングもしていて、さらに加えて胃に落ちてきたのは肉だ。それも牛肉だ。そう考えると人の胃袋が一時的に大食い仕様に変身していてもおかしくはないんだろう。どんぶりだけじゃ食べたりないからプラスでサラダとバナナと、さらに食後のコーヒーも付けたが、お腹が膨らむ肉感はついにやってこなかった。

ちょっと不足な感じはあるが、まあ、たくさん食べたわけだし、全身にエネルギーが満ちているから、はりきって今日も元気にいこう。そう言い聞かせて、メンタル・フィジカル良好で出勤したが、いつもより二時間も早くお腹がグゥ~っと鳴り出した。

ただの空腹じゃなかった。まるで酷い貧血みたいに、頭がぼーっとして、腕が持ち上がらず、ゼーハーゼーハーと呼吸が荒れだした。口内を通る空気を食物と錯覚してか、唾液腺のバリケードが瓦解して、意識して飲み込まないと口から溢れ出そうになった。

胃の中は完全にからっぽだった。仕事を続けようにも燃やすべき燃料が0で、最終的に腕を噛みちぎりたい気分にでもなってしまいそうだ。

空腹を我慢できないやつは自己コントロール力がない未熟者。

僕は普段そんなストイックな言葉を唱えて欲望を律して、欲望に傾きそうになるたびに心の中で自分に蹴りを入れている。なるべく自分で律した信条は破りたくない。けどグラスの底に穴が空いたように欲望があふれ出すと、言葉と意志で律したものなんて薄っぺらな障子みたいに簡単に破れた。

ここで我慢する奴は己の命をないがしろにする社畜だと思った。

自己コントロールとは欲望に溺れるのを回避するための精神で、最低限の欲望を叶えたうえで成り立つものだ。僕は社畜じゃなくて人間だから、人間らしく、ふつうに飯を食いに行こう。

トイレに駆け込むように近場のうどん屋に駆け込んだ。注文したのはかけうどん(大盛り)と野菜のかき揚げ。運動部に所属する育ち盛りの高校生にとってはわけない量だろうが、こちとら普段かけうどんの並盛くらいの量しか食べないやせ男だ。わずかながらに残った理性でこんなに注文して大丈夫かなって心配したが、その心配はまさしく的中した。

肉体の欲するままに麺をすすり、かき揚げを噛みちぎった。出汁に絡まってつるりと喉に通る麺。そこにかき揚げのジューシーさと野菜の甘みが合わさって、うまみの爆弾が胃袋と脳みそで爆発した。極限の空腹が爆弾を誘爆して、食べれば食べるほど空腹が増すループにはまった。

このループの中にいる間は天国だった。
しかし完食して、忘我状態から脱すると、今度は逆にはちきれんばかりの満腹感覚が襲ってきた。空腹が空腹を呼ぶ勢いは理性皆無の欲望が魅せた幻惑だった。

たくさん食べたおかげで食事前の貧血に似た苦しみからは解放されたが、胃袋が異様な熱に襲われた。これは満腹の代償だった。あの全身にエネルギーを運ぶ、気持ちいい血液巡回は跡形もない。

僕の身体はこう言っているようだった。
「ご飯をたくさん食べてくれてありがとう。空っぽだった動力炉が満タンになったよ。これから少しずつ燃料を燃やしていくから、君はしばらく満腹の余韻におとなしく浸ってて。」

おかげさまで頭を動かすための演算器官、脳には血が流れなくなった。物事を認識し、物事間の関連性の中に埋め込まれた事象を発掘することはできなくなり、それはすなわち、あの職場において自分が木偶の坊になることを意味していた。

もしもこれから仕事に戻る必要がなく、自由に眠ることができるならば、最高の幸せだったことだろう。

どうして満腹をまるで悪者のように見てしまっているんだ。息が絶えるほどの空腹が美味しいご飯のおかげで満たされて、お腹がそれを燃やしてエネルギーに変えようとしてくれているだけなのに。

それが本来の生きる目的なようなものではないか。生命維持活動のために脳に血が回らないのなら、今は仕事をするときじゃないんだ。

消化だけに専念して、あとは包まれる快楽に従うままに眠ればいい。うどん屋の固い木椅子じゃなくて、太陽を吸い込んだ柔らかいお布団の中で寝息を立てられたらとどんなに幸せか。

だけど、僕は仕事に戻らなければならなかった。だからこんなに満たされた幸せを僕は苦しみとして感じてしまう。
結局この日は仕事場に戻った後ずーっとぼーっとしてなにも出来ず、時間だけが無為に過ぎ去った。

健全な肉体は健全な精神を育む。

僕はずっと健康的で満たされた食事をして健全な肉体と精神をつくることを意識してきた。それが仕事のパフォーマンスを上げてくれて、長期的に見れば僕の人生を豊かなものにしてくれると信じてきた。

つまり僕が理想にしていたのは、食べもので元気になって、仕事を頑張って、頑張って分また食べて、満たされた状態で眠る。そういう月並みな生活だ。

だから僕にとって、たべることは生きることだった。仕事を頑張ることも生きることの一部だった。

なのに今やたべることが生きる(仕事を頑張る)ことを邪魔していた。そうなったのは昨晩、仕事が生きる(食べる)ことを邪魔したからだ。

昨晩ちゃんと食べなかったから朝気持ちよく起きられた。そうだ。だから昨晩の選択には間違いはない。でも、昨晩電車が残っている時間に帰れたら、生きることを邪魔されなかった。

大袈裟な物言いだろうか。人によってはそう思うかもしれない。でも僕にとっては食べることと労働がきれいな円を描くコンパスの針と炭のような関係であって欲しかった。

いまはきっとどちらかが欠けてしまっている状態なのだ。だから円が乱れる。そういえば円は力の循環を意味するって、「鋼の錬金術師」で言っていたな。

欠損を修理するか新しいものに入れ替えるかして、今よりもきれいな円を描きたいな。それが僕の生きる力の循環になる。

そのためにもまずはじめに、
ランチにかき揚げは二度と食べない
と決めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?