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#1 通行人Aの徒歩20分

その日はもともと21時まで仕事の予定が入っていた。だから僕はそのつもりで構えていた。18時過ぎに食事に出かけて、元気いっぱいに仕事を終わらせて22時過ぎに帰宅してゆっくりしよう。そしたらまた気持ちのいい朝を迎えられる。

そんな思惑は裏切られて、別件で大きなトラブルが生じてしまった。その対応のせいで途中夕食を食べにいけなくなって、夜予定していた仕事は2時間も後ろ倒しになった。自宅の最寄り駅はローカル線だから終電が早い。23時過ぎに職場を出るともう改札が閉じている。一番近いJRの駅からは徒歩20分。シャッターが閉じて人気のない、だけど白い外灯が煌々と照らされている商店街をぽつぽつと歩き、そこを抜けると大きな6車線道路にでる。商店街の白い光は届かなくなり、代わりに空間を染めるのは、薄暗い夕色の灯りだ。

ガタンゴトンガタンゴトン。赤信号を待っていると鉄骨が揺れるような轟音が近くから響いてきた。夜闇では目よりも耳に入る情報のほうが敏感になる。どこからか鉄骨が降り落ちてくるんじゃないか。そんな最悪の状況を頭の隅で妄想しながら音の出どころを目を凝らして探した。

音の源はすぐ近くの歩道橋からだった。橋の上で6,7人の男のシルエットが飛び跳ね、鉄骨が軋み、ガタゴト音が立つさまを無邪気に笑い遊んでいた。

声変わりする直前の上ずった声と大人になった低い声が混ざり合っていたから、中学生のやんちゃ集団だろうか。やんちゃ坊主たちは衆人環視の消えた夜の町で「他人の目」という抑圧から解放された快楽に心を委ねているようだった。

きっとスプレー缶で落書きアートを描くのと同じ気持ちよさなんだろう。公共の建造物を自分の持ち物であるかのように乱暴に遊び、だけど本当は自分のものじゃないから間違った使い方をしても責任を取らなくていい(場合によっては責任を取る羽目になるがそんなこと彼らの頭にはないだろう)。

大人がアルコールや性行為で発散する鬱憤を思春期の少年たちはこういう無責任な放埓で発散しているのかもしれない。そう思うと、随分僕は「大人」の側に身を染めてしまった。

彼らが僕の存在に気付き、「誰だこいつ」みたいな視線を向けてきた。この半径30メートルほどの夜の空間は彼らの支配圏で、僕は領域侵犯したよそ者だった。仮にこの6,7人に囲まれて金品を要求されたとしたら為す術もなく強奪の憂き目にあうんだろう。そして持ち物を全て盗られたら家にも帰れず、一文無しで蒸し暑い夜に一人放り込まれる。

自分は一人きりの孤独な存在で、持ち物を取られただけで何もできなくなるか弱い人間なのだ。孤独や寂しさには耐性があるほうだと思っていたけど、考えると孤独を感じるのはいつも家の中でだった。家の中は安全だ。だけど外は違う。外だと一人であることが引き立って怖くなる。どうしてこんな時間にこんな場所にいるんだろうか。堂々と歩いて生きたかったのに…。

そんな自分の願望を裏切るように僕は無関心な通行人Aを装って、若い視線に晒されながら静々と青信号を渡った。

扉を開けるとそれまで張りつめていた糸が弛むようにスイッチが切れてベッドに倒れた。ポロシャツを脱ぎ捨てると柔らかいコットンのお布団が肌に吸い付いてきた。顔を押し付けて鼻で大きく息をすると魂が吸い込まれそうになり、最後の力を振り絞ってズボン無造作にを脱ぎ棄てた。ベルトの締め付けから解放されると、仕事とか家事とかいろんなことをちゃんとやらなくちゃっていう変な義務感が煙のように消えて、食事をとるのも煩わしくなった。

きっとずっとアドレナリン的なテンションになっていたんだろう。日が沈んだ頃はお腹の音がうるさいくらい空腹だったのに、トラブル対応などに集中しているうちに忘れて、駅から徒歩20分の距離を悠々と踏破できるくらい疲れ知らずになっていた。

ベッドに倒れて疲れと一緒に沸き上がったのは忘れていた食欲じゃなくて睡眠欲だった.

食事なんかはもうどうでもいいんだな。この肉体が抱える生理的欲求のすべてを睡眠だけで満たしてやろう。

灯りを消し、目を閉じた。

瞼を再び開くのが億劫になってくる。なのに、眠れなかった。お腹の中が空っぽなのがすごく違和感だった。

そして、もうひとつ。脳みそが眠ろうとしてくれなかった。身体はボロボロなのに、頭は仕事のときと同じ活発状態のままで、スイッチをポチポチ押しても消えてくれない照明みたいだった。意味もなく永遠と点滅して、複数の考え事が言葉なく同時並行的に処理されていく。思考は言語化されてこそ思考たりえる。言語のない思考が結論に達するはずがなく、行き場をなくしたそれらが同じところをぐるぐる回ってフラッシュし、糸と糸が絡まり合りあうような無限ループに陥っていた。

こんな状態の時はいつも強い酒を飲む。眠ることを一時我慢にて布団を抜けると、棚からウイスキーのボトルをとり、レモンと氷を入れたコップに注ぎ込んだ。また、たまたまラズベリーがあったから、残り物処分の気持ちで、その赤い実を琥珀色の液体の中に沈めてやった。

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投げやりな気持ちから作ったドリンクは案外美味だった。ウイスキーはコンビニで一番安く売っているTORYS。香りやコクのない、申し訳ないが、ただ酔いたいがためにしか飲まれない雑味たっぷりのアルコール。だけど沈められたラズベリーは余計な雑味を打ち消して、爽やかな酸味を引き立ててくれた。アルコールが入ると、絡まった思考の糸が程よくほぐされて、綿に包まれるような心地へ誘われる。

終着点のない思考の嵐が静まって、もう何も睡眠を邪魔する要素はなかった。ラズベリーが溶け落ちた胃も心地よくて、すぐに眠りに落ちた。

翌朝は目覚ましが鳴る10分前にすっと起き上がれた。

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