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遠くて懐かしい本『台湾少女、洋裁に出会う――母とミシンの60年』_おうちで小旅行をしたいときに

 第二次世界大戦前、日本占領下の台湾で育った少女が洋裁師となり、大規模な洋裁学校を開く――。
 そんな偉業を成し遂げた、立志伝。著者の母の、立志伝を書いた本だ。

 ページをめくると、ふるい思い出を語るやわらかな文章と、セピア色の写真がパラパラと見え隠れする。

 当時の台湾の風景が、少し見えるようになるだろうか。
 そんなことを思いながら、手に取った『台湾少女、洋裁に出会う――母とミシンの60年』を図書館から借りることにした。

 一言で言うと、期待は裏切られなかった。

 李さんのところの建築現場に、ぼくはすっかり夢中になった。驚かされたのは現場に組まれた足場を、少なくない女性が忙しく行き来していたことだ。彼女たちは灼熱の太陽の下、花柄の作業服に編み笠という格好で、さらに花柄の布で頬かむりをして、人によっては目以外すべてを覆っていた。長袖の上着に加えて手甲をつけていたから、見えるのは五本の指先だけ。上半身をそれほどしっかり着こんでいるのだから、下半身のほうは言うまでもない。彼女たちは農村からやって来た女性で、あちこちの現場で元気そうに、コンクリートの攪拌やレンガと泥の搬入などをして働いていた。のちに農村を初めて訪れたとき、それが彼女たちの農作業時の身支度で、都会の建築現場で同じものを着ていただけだったのだと知った。農地にせよ建築現場にせよ、台湾人女性らしく肌の白さを最優先に守る服装であったといえる。

『台湾少女、洋裁に出会う――母とミシンの60年』鄭 鴻生 (著), 天野 健太郎 (訳)

 戦後、農村からたくさんの人が都会に出てきて働き始めたシーン。
 花柄の作業服を着た女性たちが、建設現場で働いている。

 戦後、鳶職や建築現場での力仕事。という言葉でイメージするのが「男社会」だった私には、イメージしづらい風景だ。
 それでも、明るい色彩や、楽しそうな話し声が聞こえるような躍動感にあふれて、たしかにそんな風景があったのだと感じる。

 もちろん、この本の本筋はお母様のサクセスストーリーだ。
 でも……私の興味を引いたのは、どちらかというと、こういう些末な風景の描写だった。

 色や匂いまで手に取るような台湾の風景も楽しい。
 それに当時の台湾人の見た外国の風景も、新鮮だ。

 東京のラッシュの人込みはすさまじく、また人びとの歩く速度も尋常でなく、万事のんびりした台南からやって来た母は、いつも人にはじき飛ばされんばかりであった。あるときには、市電に乗ろうと急いでいた男が、地面のぬかるみに足をとられ転ぶのを目撃した。それでも男は起きあがっては転び、転んではまた立ち上がりを繰り返し、その果敢さに唖然としたことを、母は覚えていた。

『台湾少女、洋裁に出会う――母とミシンの60年』鄭 鴻生 (著), 天野 健太郎 (訳)

 これは、お母様が洋裁の勉強をするために、日本に渡ってきたシーン。
 当時はパスポートもなく、ただ船の切符を買うだけで越境できたというから、驚いた。

 昭和も今も、せわしない。ひたすら急ぎ足の日本人が行きかう、雑踏の風景。
 急ぎ足で電車に乗ろうとする男の執念が、容易に想像できるのが恐ろしい。
 

 そうかと思えば、台湾に流れてきた中国人についての記述もある。

 家族そろって西門町の「三六九」で小籠包を食べたことを、母はのちのちまでしっかり覚えていた。なぜならそれは、海の向こうから渡ってきた、これまで食べたこともない上海の美食だったからだ。
 中国大陸の文化との出会いも、台北に来てからの新しい経験だった。食はまさにその大部分を占めたが、それ以外に、父が所属した台湾銀行本店の経理部には、戦後、国民党とともに台湾へやって来た外省人(中略)の同僚がたくさんいた。父は、新しく標準語となった中国語を何年も勉強していたから、そんな環境でも意思疎通に支障はなく、人間関係も円滑だった(だから同僚たちとよく出かけたわけだ)。社宅に住んでいた外省人でひとり、日本語を話せるものがいて、その人は母ともおしゃべりできたし、また二階には、福建・福州出身の外省人一家が暮らしていて、比較的近い方言である台湾語をみな話せた。

『台湾少女、洋裁に出会う――母とミシンの60年』鄭 鴻生 (著), 天野 健太郎 (訳)

 戦後「台湾人」と「外省人」の間には軋轢があった。そんな、なんとなく持っていた知識を疑問に思うような、ふわふわと楽しい記述だ。

 人が流れたら、食事も変わる。新しい文化や言葉に触れて、変化する。
 もちろん複雑な情勢や、おもしろく思わない人たち、反発や衝突もあっただろうけれど。それでも、確かにしなやかに楽しむ人々もいた。
 そんな当たり前のことを、ようやく知った。

 昔の、台湾の風景。
 懐かしい気持ちで、いっぱいになった。

 少し疲れていて、懐かしくほっとするような場所に行きたい。
 そんな人がいたら、勧めたい本。


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