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「語り」の中に浮かび上がるアイデンティティ

心理職の友人と互いのストーリーを語り合ううちに、自分のプロフィールにアイデンティティを反映させるのって難しいよね。という話題になった。

友人は言った。「意味や価値を伴わせて自分を語るって大事よね」
うんうん、自分を語る、伝えるって大事だけど難しいよね。と私。

「『○○だけど』を『○○だから』に変えてみるのよ」
なるほど、逆接を順接に変えてみる・・という話は聞いたことがある。

「あなたの場合は『私は臨床心理士にならなかった。だけどカウンセラーをやっている』を『私は臨床心理士にならなかった。だからカウンセラーをやっている』と言い換える感じ?」
ふむふむ、「だから」の後ろには「こんな」が入るのかな・・と考えてみる。

「○○だけど」にもそれなりの意味はこもっていそうだけど、「こんな」には、自身の体験から紡ぎ出された固有の意味や価値から浮かび上がることばが入る

この「こんな」にどれくらいの愛おしさと責任を持って語ることができるのか。そこを考えてみることには意味がありそうだ。

また語る対象によっても伝え方は変わるだろう。どうすれば生きたことばとして相手に届けることができるのか・・。
そうした問いを続ける中に「自分とは何者か」の答えが自ずと見えてくるのかもしれない。

私の肩書は、ドッグセラピスト・ドッグトレーナー・そしてカウンセラーである。
そう話すと「はて?」という眼差しを向けられることも少なくない。
自分の中では一貫したストーリーの中で創られたアイデンティティなのだが、聞く人によっては「異色の経歴」と感じることもあるのだろう。それはそれで無理もないと思う。

私は犬についての専門家であり、人の心理を扱う者でもあり、その共通する要素や異なるものを通して、心の持ち方のヒントとなるものを伝える試みをしてみようかと考えている。

そもそも、認知行動療法などで用いられる学習理論も動物を使った実験から端を発している。また心を癒し落ち着かせるホルモン「オキシトシン」は人と犬が見つめ合う時に両者で分泌されていることが認められている。
更に、動物の心を通して人の心の理解を深める「比較心理学」という学問も、進化の過程を共にした生き物としての繋がりが認識されて興味ぶかい。人と動物に共有される部分から得られるものは多いのだ。

とはいえ、異色→「怪しい人」という印象を持たれたら耳を貸してもらうことも難しい。
今回、自分のこれまでを辿る語りを通して、「体験が教えてくれる意味」を深める機会にしようと思う。

これまでのストーリー

私は子どもころから哲学的なことを考えるのが好きだった。幼稚園児の頃に「今の出来事は確かに起こったことなのに、時間が経つとそれが無くなってしまうのはどうして?」と言って、友達を自分の頭の中の迷路に招き入れたこともあった。心という目に見えない世界に対する興味はこの頃から芽生えていたのかもしれない。また誰かの役に立ちたいという利他的な思いも人並みにあった。

20代になってそうした関心が合体したのが心理学、なかでもカウンセリングを軸とした臨床心理学の分野だった。田舎に住んでいたので、まずは泊りがけでカウンセリング講座などに参加した。そのなかで河合隼雄先生の講演会に参加する機会もあり、物語や象徴の中に心の動きを見ていくような考え方の面白さを知って、その世界に引き込まれていったようにも感じている。

地方公務員として住民に対する相談業務などに就いていた30代の頃、「犬と共に社会に貢献する」と謳った新聞記事が目に留まった。それは3年かけて犬のトレーニングスキルを習得することに加えて、心理学の理論やカウンセリングの技法について学ぶ専門学校の紹介だった。
犬好きでもあったこと、そして心理学への関心を深めていた私には興味をそそられる内容だった。
入学したい・・。でもそうすると今の職を失うことにもなる。

何年か逡巡したのち、思い切って入学を決めた時には30代後半になっていた。そして犬のトレーニングと心理学の学びにどっぷり浸かる日々が始まった。
週に2回通学し、日中はオペラント条件づけの技法や応用行動分析という理論を用いた犬のトレーニングスキルを学び、夕方からは心理学やカウンセリングの技法について学ぶ。

通学日以外にもドッグセラピーの実習があり、セラピードッグを伴い高齢者や子どものいる施設に出向いてアニマルセラピーを行った。そこでは授業で身につけた心理学的アセスメントや介入方法を活かして対象者と関わり、セラピードッグをハンドリングしていく。

終了後は毎回先輩セラピストから愛のこもった指摘を浴びることになる。
「もっとゆっくりと。間を大事にしないと相手の状態をキャッチできないでしょ!」
はいそうでした。レクレーションの進行に気を取られていました。
「あなたは目が笑ってないのよ」
グサッ!胸の奥で音がした。
ああ・・でもたしかに、犬のハンドリングにいっぱいいっぱいで、受け取った気持ちに思いをのせて返す余裕などなかったかもしれない。
言葉選びからセラピスト自身のテンションの持ち方に至るまで、有難くも耳の痛いお言葉を頂戴する。

しかし、たとえ耳の痛い指摘であってもそれらは乗り越えるべき課題であることに間違いない。例えば、犬が喜んで近づいたとしても、相手の中に脅えがあった場合「こわい!」と大声で反応されることもある。そうなるとその場の空気は一変する。

犬をハンドリングしながらも場の状態や、対象者の非言語的な情報に敏感でなければいけない
指摘されたことや改善点、目標などをまとめたレポートを実習のたびに提出する。
担当したセラピードッグとの信頼関係が築けていない場合は特にへこむ。

学んだことを何度シュミレーションして臨んでも、いざ現場に出ると丸腰である自分を思い知らされた初心者の頃「誰もが通る道」と言い聞かせて実習に向かった。

それでも犬と協力して、たくさんの笑顔を受け取ることができるのは純粋に嬉しくて、それが次へのモチベーションとなったのは間違いない。

そんな3年間の学びを終えてドッグセラピストとして独立したのは40歳前。その後は学校で心理学講師をされていた先生の研究会に6年ほど通い、引き続き精神分析やユング心理学に加えて、認知行動療法や家族療法など、色々な学派に基づいた事例検討をしたり、スーパービジョンを受けたりと統合的な心理療法を教わった。

そうして心理カウンセラーのお墨付きをいただき、私の、2本のわらじならぬ3本の・・わらじとは言わないが、ドッグセラピスト・ドッグトレーナー・カウンセラーとしての活動がスタートした。

私は臨床心理士にならなかった。その理由を述べると長くなりそうなので割愛するとして、それならばと、自ら心理療法を体験することで技法を身につけたいと考えるようになり、まずは森田療法と内観療法を体験することにした。

森田療法

森田療法は1919年に森田正馬が自らの神経症の体験をもとに創始した心理療法で、よりよく生きたい、健康でいたいと願う「生の欲望」と、不安や恐怖を感じる「死の恐怖」が表裏一体であることを受け入れ、不安を取り除こうとする計らいやとらわれから放れて、不安のままに目的に沿った行動をしていく、「気分本位ではなく、目的本位」の態度を身につけることを主としている。

森田療法をあまり深く知らず、第1期の「絶対臥褥期」のことを「ただ安静に過ごす時期」と理解されていた人もいたが、とんでもない。
私にとってはこの1週間がとてもつらい「修行」だった。

真夏の、しかも風通しの悪い畳の部屋にはクーラーはもちろん扇風機もない。体は元気なのに暑さに悶えながら横たわるだけの毎日。
日中活動していないから夜になっても眠気が来ない。
「眠れなければ眠らない」「耳にするものはそのまま聞く」などと標語のような言葉が廊下に貼られていたが、なかなかどうして、1日2日はのんびり横になっていられてもだんだんと苦行に変わっていく。

たまりかねた私は「眠れないので自律訓練法をしてもいいですか」と日記指導の中で質問をしてみた。
「自律訓練法も呼吸法もやってはいけません。それ自体が計らいごとなのです」
まるで禅問答だ。
しかしここまで来た以上、その指導に従う以外の選択肢はない。

自分では身一つどうすることもできない時間の中にただ居る。ただその状態を受け入れる。
実際にそれが出来ていたかどうかは分からない。

ただ、続く第2期の「軽作業期」(目に入ったものをそのまま観察する)に入り、庭の草木の中にいて、地面から顔を出したばかりの小さな緑の力強さを感じながら、「いまここに集中する」ことの恵みがこんなところにもあるのだと知った。

「互いの身の上については不問・不答」というルールがあったものの、1か月に及ぶ第3期と第4期の「作業期」「生活訓練期」になると、修養性の間でも交流が生まれる。そうなると身の上を話し始める人が出てくるのも世の常だ。

「私、こうしていると普通にみえるやろ? でもな、ずーっとおんなじこと考えてんねん」
絞り出すように苦悩を伝えてこられる方がいた。その人が言う「闇」の中身を、上下のない関係の中で教えてくれた。

それはすぐには理解できないようなものだったが、私はその「闇」の内容を、そしてルールに厳格な彼女がなぜ今打ち明けてくれたのかを、しばらく考え続けた。

外から見られることの無いように懐に苦しみを抱えて生きていく人生が、厳然たる事実として目の前にあるのだと教わった気がした。それを「心を病む」と表現するなら、大なり小なり誰もが病んでいるようにも思えた。
もちろん私も。

内観療法

内観療法は1940年代に吉本伊信が開発した自己洞察の方法(内観)を1960年代から医療へ応用したものとされている。浄土真宗の「身調べ」という修行法を活用し、自分と関わりの深い家族から順番に「世話になったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」について、できるだけ幼いころから振り返り、2時間たったところで指導者に報告をする。そうした作業を広い和室の四隅に屏風を立て、わずか半畳の空間に座り、早朝から深夜まで行う。

私は奈良にある吉本伊信先生のお寺でお世話になることにしたが、先生はすでに他界されており奥様から指導を受けることになった。

そこで過ごす1週間を「集中内観」といって、洗面・トイレ・入浴、そして朝の掃除以外は屏風の外に出ることはない。内観者同士の私語は固く禁じられている。

その厳しさの中に身を置いて、まずは母親にしてもらったことについて幼児期の2年間に限って詳しく調べるように言われる。それが終わると次の2年・・そして順々に重要な他者に対する身調べが進むうち、感謝や懺悔の感情が呼び起こされる。

屏風に囲まれてはいるものの、他の方の語りが聞こえてくる。対角の隅に座った女性が、これまでひどい扱いを受けて、憎しみの感情しか湧かなかった家族の「自分への思いやりが感じられました」と嗚咽を伴って吐露される。

私はその声を恥じ入るような気持で聞き、呟いた。
「内観が進みません」そう告白する私を不憫に思われたのだろう。奥様は静かに頷いて、一枚のちゃんちゃんこを手渡してくれた。

「これは主人のものです。今夜は冷えるからこれを着て頑張りましょうね」

吉本伊信が着ていたもの・・・
しばらくそれを見つめた後、厳粛な心持ちで羽織り、頑なな心がとろけていくように自然と涙が溢れ出た。
「とろかし療法」日本発祥の心理療法は仏教の影響を受けていると聞く。古澤平作が精神分析を日本に持ち帰り、父への憎しみや葛藤がテーマとなる「エディプスコンプレックス」に対して、日本独特の概念「阿闍世コンプレックス」を唱えたのは有名だが、母への恨みと大いなる存在からの赦しがテーマと聞いたことがある。甘えの概念の元にもなり、融合の体験がもたらす状態と言ってよいだろうか。

母への内観が進まず責めや恥の思いも上塗りされていくなかで、大いなるものに包まれる感覚に身を置いて、やっと自分への赦しの感覚に開かれた涙だった。

内観が進まなくなると、足のしびれや眠気とひたすら戦っているようにもなり、自ら求めてきたはずなのに苦しさだけが襲ってくる。情けないことに、屏風をそっと開けて運ばれてくる食事だけが待ち遠しくなる。

早朝内観をしていると、奥様が朝食の準備をされる様子が聞こえてくる。私が好きだったのは揚げ茄子のお味噌汁だった。朝早くから茄子を油で揚げる音と、出汁の気配が屏風の中まで漂ってくる。
屏風で仕切られた空間で孤独に取り組む厳しさも、実は温かい守りの中にあることを知る。そして内観の一日が始まるのだ。

涙は技法によってもたらされたのではなかった。
技法は武器にはならない。
いや、技法だけで戦うことはできない。というべきか。
技法を施されただけでは到達しえない世界があるように感じた。

今振り返ると、臨床心理士にならなかった私は、自分なりの武器を持たなければ戦えないと、できるだけ早く技法を身につけようとしていたのだと思う。
技法を身につけるより前に開かれておくべき世界があることを身をもって知り、私の内観体験は終わった。
「そんなにムキになることないよ」
当時の自分に伝えてあげたい。


セラピーを受ける

その後、臨床心理士のセラピーを受けることにした。当時は臨床心理士の数も少なく、探すのも苦労をしたがやっとの思いで出会った心理士とセラピーは始まった。

毎週決まって訪れる時間の中で、私は一つ一つ自分の思いを振り返り、セラピストとの語りを通して自分と向き合う作業を繰り返す。そうして数年が経過したところで終結を迎えた。

「機会があればまたカウンセリングを再開してもいいですよ」セラピストからのその提案は20年後に実現することとなる。

その後の学び

通い続けていた心理学の研究会も終了し、放送大学に入学したのは45歳くらいだったと思う。大学では臨床心理学に限らず広く心についての理解も深め、認定心理士を取得した。

「基礎心理学を学んでもカウンセリングには役立たない」という声を聞いたこともあるが、そんなことはない。人の普遍的な心理を知る社会心理学も、記憶や知覚について知識を深める認知科学も、心理学の歴史を知る心理学史も、どれもこれも無駄なことは一つもない。これは学んでみて実感できることかもしれない。

今は統合的な心理療法に関心を持ち、実践的な講座や興味のある学派の研修をいくつか選びながら研鑽を積んでいる。昔はかなり気合を入れて、旅費や宿泊費の負担をやりくりしながら受講していた研修が、今ではオンラインで受講できるようになった。こんな時代が来るなんて・・としみじみ思う。

こうして振り返ると、惜しげもなく知識や経験を伝授して下さった多くの先生の顔が浮かび、感謝の気持ちが溢れそうになる。

私はインプットしてきたものを恩送りのように還元したいような気持になり、今は小さな勉強会を開催して、公認心理師の仲間に心理学の理論やカウンセリング技法を紹介し、ロープレやブレインストーミングを用いて「話を聴く」という営みについて共有する時間を持っている。そうした活動を通して少しは自己実現という感覚が得られるようになってきた。

今もまだエリクソンの発達段階の課題「世代性VS停滞」のさなかにいるのだと思う。

アニマルセラピーについて


アニマルセラピーは主にAAA(アニマル・アシステッド・アクティビティ)とAAT(アニマル・アシステッド・セラピーの2種類がある。

AAAはふれあいやレクレーションを通してQOLの向上などを目的とするもので、現在行われているアプローチのほとんどはこちらと言ってよいだろう。

一方でAATはより治療的で個別的な介入である。
犬と触れ合うことで血圧が下がり、心も安定するといった効果は早い時期から認められていたし、そういった感覚は愛犬家なら素朴に実感されているのではないだろうか。
単なる癒し効果だけではなく、自閉症の感覚統合の効果や感覚過敏の改善、強迫症状の緩和も期待されている。

ただ今のところ、それらについては体験例として耳にしたことはあっても、エビデンスのある具体的な事例については残念ながらお目にかかっていない。

最近ではファシリティドッグという言葉も少しずつ普及しているようだ。ファシリティドッグは病院で活動するために専門的に育成された犬で、プロのドッグトレーナーが育成し、現場でハンドリングするのは看護師か心理士などの専門家とされている。
ドッグセラピーの活動がこのように認められるようになってきたことは関わってきたものとしてとても嬉しい。

いずれの場合も、犬の魅力が癒しを与えるのではなく、セラピストが対象者の状態を見立て、ふさわしい関わりのもとに両者の会話を通訳していくスキルが求められる。
そのためにも私たちは心理学全般の知識やセラピーの技術を学んできた。

私は、ドッグセラピーとアートセラピーに重なる要素があると考えている。
犬と触れ合うなかで、犬の多義的な表情に投影されたその方の思いをくみ取っていく。それは、箱庭や風景構成法、コラージュ法などでも言われる、「作品を共に味わい、作者の言葉にならない声を受け止める」ことと共通している。

「犬はしゃべらないからいい」とも言われる。体温が高く柔らかい犬に触れることで、それまで無表情だった方の頬が緩む。セラピストはその感情を更に促進するように声をかけていく。
犬を通して言葉にならない思いに心を寄せていく。

例えば、高齢者施設でのレクリエーションでは、ボール投げなどをしながら「楽しいからもう一回!」って言ってますね。と、対象者の表情から伝わる思いを犬の言葉として伝え返す。
セラピードッグと対象者の両者に目配りしながら気持ちを繋いでいく。
そして、犬の温かい体や、憂いの無い純粋性に触れることで沸き起こってくる感情をしっかりと受け止めていく。

最近は、アニマルセラピーに関心を向ける学校などからアドバイスを求められることもある。話を伺うと、なんとなく犬を連れて行けば効果があるように思われているふしもあり、少々不安に感じることもある。
まずは、動物の福祉に関する知識を伝え、その上で、生き生きとした犬の表現こそが心に届く力になり得るということ。その為の信頼関係を子犬の頃から育むことが大切であること。そしてセラピストは黒子に徹しながらもそのパートナシップに責任を持って、きめ細やかに関わっていく営みであることを知って欲しいと思う。

私はドッグトレーナーとしても活動している。最近では不登校など様々な事情を抱えて犬を飼うことにしたと言われるケースも増えた。その場合は一緒に来られたお子さんに「ポチはなんて言ってる?」などと問いかけてみることもある。

「恥ずかしいって」とか「そろそろ帰りたいって」と、もじもじしながら言葉にしてくれることがある。その言葉や非言語的なメッセージをくみ取って、背景にある思いを感じ取るような関わりをする。
希望があればそのお子さんにもトレーニングに参加してもらう。そうして主体性が少しずつ発揮され自由な表現が可能になり、犬もまずまずお利口さんになったところで完了。というのが理想。

もちろん毎回そのようには行かないけれど、そこに向かってご家族と取り組んでいく営みはドッグセラピストとして側面を生かした活動である。

ドッグトレーナーの本来の仕事は犬の問題行動に着目して、矯正をしていくものであるのは間違いないが、セラピストとして関わる時には飼い主さんの気持ちにより注目する。愛犬との関わりやその変化を通して心の変容に繋げることや、家族の循環が変化することも視野に入れてプログラムを立てることもある。といったら伝わるだろうか。

一緒に卒業したドッグセラピストの中には、数少ないが同じような活動をしていた仲間がいた。すでに連絡を取り合うことはなくなったが、今はどうしているのだろうと時々頭をよぎる。

セラピー活動を共にしたパートナー犬を亡くして久しいが、もう一度セラピードッグを育ててみたいと思い、新しく犬を迎い入れた。ただ、家族にアレルギー持ちがいることなどを考慮し犬選びを優先した結果、彼(犬)がセラピー向きではない性格の持ち主であることを思い知らされている。それでも型にとらわれず、彼が負担なく楽しく活動できるような方法がないかと現在摸索中である。

カウンセリングの学び

心理学を学び、カウンセリングの実際に触れることは本当に楽しい。オンライン研修が普及し、多い年は350時間以上の時間を費やしている。内容は分析系以外にも、認知行動療法やその他気になるものを手あたり次第という感もあり、我ながら節操がないと感じることもある。なにも研修時間が多いのが良いというわけではないし、決して全てが身につくはずもない。

ひょっとしたら、若いころに渇望してやまなかったものを求め続けているのかもしれない。

ただ私にとってその時間は、自分の視野を広げ、新しい発見に繋がるかけがえのないものとなっている。

セラピーの再開

そしてまた、前述した心理士とのセラピーを再開することになり4年目になる。20年前はまだ青年期とも言える年代だった先生も当然ながら中年期になり、円熟味のある安心感を湛えて再開を快諾してくださった。

私は私で自分の残された時間について考え始める年齢になり、一緒にこれまでのストーリーを振り返る。
時に痛みに直面しつつ、対話を通して物語を紡ぎ直していくことの味わい深さをかみしめるような時間を繰り返している。

毎回の面接が終わることを、「喪失体験」と表現されることもある。
出会いと喪失の繰り返しの中で、セラピストが内的対象として内在化される。面接のインターバルではセラピスト不在の中、内的対象との対話を通して自分を見つめていく作業を続けているのだと感じている。

たまにセラピーの頻度についての様々な意見を見かけるが、毎回の喪失と出会いの間にもそうした作業が続いているのだとすれば、精神分析的な心理療法が週に1~2回と定められているわけに納得できる。

セラピーの効果検証についても、終結後3年・5年のフォローアップ時に比較研究をした中で、時間を経るほどにパーソナリティの変化などの良い効果が生じる遅延効果が認められたという研究結果を目にしたこともある。
頻度については料金との兼ね合いの中でその価値が問われることにもなるのだろうが、そのような点に着目することも大事なのではないかと思う。

少し横道に逸れたが、そうした面接の合間の作業や、夢の内容をセラピストに語る。
私は語りながら、目の前に水晶玉を置いて、そこに描き出される心の様が二人のやり取りを通して変化していくのを、共同注視し味わっているような感覚になる。

それが例えばアートセラピーであるなら作品を、ドッグセラピーなら犬の表現を通して、浮かび上がる思いをつぶさに見ながら共に味わうような営みと言えるのではないかと思う。
そして自分がクライエントさんと向き合う時もそんな感覚を大切にしている。


語りを終えて


現在の私は、頻度は多くないが自宅でカウンセリングをし、時々行政機関で市民の相談を請け負うフリーのカウンセラーである。
これまで色々な思いに掻き立てられながらも、この年まで特に華々しい活躍もなく今に至ったカウンセラーで、ドッグセラピストのスピリットを失わないドッグトレーナー。それが等身大の私である。

若いころは、臨床心理士にならなかったから、学校では学べないような経験を積み、それ以上のもの身につけて・・と負の感情を力に変えてきたよう思う。
年を重ね、自分の限界を日々感じていく中で、それでも私はこの領域の端っこにいられることを幸せに思う。そしてこれまでお世話になった恩師の方々を思い浮かべ、授かったものを自分なりの形で生かせる機会のあることを嬉しく感じている。

「恩送り」「世代性」その感覚を持てることはやはり幸せなのだと思う。「自分を語るって大事ね」」と友人は言った。

私は臨床心理士にならなかったから「こんな」カウンセラーになりました。この言葉を慈しみと責任を持って語れるか。
アイデンティティの模索はこれかも続いていくのだろう。

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