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現代思想への片思い(上)

それなりに貢いできたのに、ちっとも胸の内が見えないから、いっそのこと片想いと呼んでしまおう。お相手は現代思想。不可解ながらもときめいた『アンチオイディプス』以来のファンである。

ソーカル事件」を盾にバッサリ切り捨てる人もいるが、僕は未練を断ち切れず、話題の本や入門書が出るとついつい手を伸ばしてしまう。買っただけで忘れ去られるケースが大半で、たまに開いてみると数ページでこちらの理解を拒まれたりするのだが。

最近ようやくわかってきたのが、どうやら相手は相当気まぐれということだ。はたから見るとちょっと不可解な選択をよくするのである。つい先日書いたように、会話を分析するのに、あえてフィクションの例ばかり挙げるとか。

近頃の気分をうかがってみようと、雑誌『現代思想』の新年号を手にした。「ビッグ・クエスチョン」と題して、文字通り大きな疑問に真っ向からぶつかった原稿がずらずら並んでいる。

ところが、である。冒頭の一本、最初の一行でつまづいてしまった。「夢は必ず覚めてから後でその本質(夢であること)が露呈する。これは間違いなく夢というあり方の一大特徴である」(永井均、「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」)。

あれ、確か目覚めなくても、見ている途中で夢だって気づくやつがあったような。この本をひっくり返したら「明晰夢」と言われる現象で、故意に誘発する物質やら、訓練法やらもあるらしい。調べてみると日経の記事にもなっていた。

おそらく自分の読み違いだろう。上の文のカッコの内外を結んで「本質=夢であること」とみなし、すなわち「夢の一大特徴とは、覚めるまで夢とは気づかないこと」と読んでしまったのが敗因か。とはいえ、それ以外にどう読めばいいのか僕には見当もつかないのだけれど。

気を取り直して言語を扱った別の論文をめくってみた。ChatGPTなど、最近の大規模言語モデル(LLM)を哲学者がどう捉えているかを楽しみに。しかし、である。「言語とは何か?」と題した原稿のどこにも、ChatGPTどころかAIの一文字もないのである。

その代わりに出てくるのは、ヴィトゲンシュタインとかフレーゲとか、70年以上も前の偉人の逸話だ。やはり時の試練を経た概念でないと、取り上げるに値しないということか。『哲学探究』やその解説本を手元に置くだけで満足している僕は顔を赤らめるしかない。あるいは、「長年生き残った天動説を、今でも信じる人がいるらしい…」などと幼稚な一言をつぶやくしか。

そういえば思い出したが、必要に駆られて最近読み返したベストセラー『唯脳論』にも気になる指摘があった。ちなみにこの本も「現代思想」の連載を基にしたそうである。なお、自分の片思いは雑誌の方ではなく、思想全般なのでお間違えなく。

僕が引っかかったのは、次の一節である。ちょっと長いが引用する。

「視覚の特質は、『物事をひと目で見てとる』ことである。写真はそれを典型的に示す。[中略]現実を流れる時間という要素が、写真そのものの中からは、抜け落ちている。それが視覚あるいは画像の特質なのである」(Kindle版、p.139)。つまり、視覚において時間や動作の認識は二の次というのである。

えっ、そうなのか。刻々と変わる動きの認識も大事だと思うんだけど。そうでなければ信号のない場所で道を渡ろうとしても、自動車の行方を捉えきれずに轢かれてしまうではないか。

念のため教科書を開いたら、「視覚は、物体認識だけでなく、私たちの動きを導くためにも使われます」と書いてあった。「視覚はしばしば誤ってカメラの操作と比較されます」(いずれもPrinciples of Neural Science, Sixth Edition、Kindle版、p.496、ChatGPT訳)とも。

続く


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