会話の哲学、会話の科学
僕は話すのが苦手なんだ。
そう感じる回数は、昔も今も変わりません。
面と向かって自己紹介を求められると途端に体が固まる。世間話の出だしにつまづき、声が上擦り、どもり、沈黙に陥っては脂汗が滴り落ちる。まだ親しくない相手を見かけたら、声をかけるべきかどうかで迷ったあげく、目を逸らしてやり過ごす。三つ子の魂そのものに、人見知りの性が半世紀を経ても抜けません。
そこで手に取った一冊が『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』です。スムーズに話すためには、円滑な会話の原理を根元まで遡って知る必要がありそうだ。そのための手立てが哲学であり、深い思考が良薬へ導いてくれるのではないかと。などと書くとそれっぽいですが、本当は「Kindle 日替わりセール」で安くなっていたから。レビューの得点の高さが期待をそそります。
残念ながら、予想は裏切られました。思った内容では全くなかったのです。
架空の会話を哲学する
一番ガッカリしたのは、本物の会話について一切記していないことです。本書が取り上げる会話は、『ロミオとジュリエット』から『ONE PIECE』まで、すべてフィクションに登場するそれなのです。私が知りたかったのはリアルな会話を駆動するダイナミクスであって、シェイクスピアや尾田栄一郎の超絶技巧ではありません。想像上の会話を俎上に載せるだけで、どうして会話の本質を知り得るのでしょうか。
この点に著者が無自覚なのか、驚きの表現がいくつも登場します。例えば「現実のフィクション作品には……」(Kindle版、p.37)という言い回し。フィクションとは、他ならぬ架空の存在とばかり思っていたのですが……。「実際の会話でどれだけあるかはわかりませんが、フィクションでは多用されます」(同p.223)と、もはや現実を相手にするのを諦めたかのような文章まで飛び出します。
初学者にも親しみやすいよう、苦心惨憺した成果なのかもしれません。それでも納得できないのは、物語世界の会話は僕が知る本物からあまりにもかけ離れているからです。
現実の会話に向き合う
仕事柄、取材や対談の内容を録音から文字に書き起こすことがあります。ものすごい手間と暇がかかる作業で、最近のAIの恩恵をひしひしと感じます。いわゆる「テープ起こし」(死語?)がそこまで時間を食い潰すのは、自然に進む人の対話は言い淀みや繰り返し、聞き取れない音や単語、途中から話が変わる発言で満ち溢れているためです。実在の人間の口ぶりは、小説や映画、テレビドラマのように滑らかでは全くないのです。
だから、続いて読んだもう一冊には、のっけから感動しました。「・会話中は八十四秒に一度、必ず誰かが『え、何?』、『誰が?』など、相手の言ったことを確認するための言葉を発する。・会話では六十語に一語は「えーと」、「あー」といった一見、無意味な言葉になる」(Kindle版、p.8)。『会話の科学 あなたはなぜ「え?」と言ってしまうのか』の冒頭です。
特に痺れたのがこの一文。「私が本書に書いていることのほとんどは、日常の普通の会話の音声、映像を録音、録画することではじめてわかったことである」(同p.14)。そうなんだよなぁと、思わず膝を打ちました。同書の白眉は人と人のやり取りを「会話機械」に見立て、そのプロトコルを実験結果の裏付けとともに解説するところ。言語やコミュニケーションに興味がある方は、読むべき一冊だと思います。
科学か哲学か
似て非なるタイトルの本を相次ぎ手に取ったおかげで、哲学と科学の違いに注意が向きました。二者択一ならば僕は科学を選びます。客観的に確認できる根拠をもとに論を展開するからです。
確かに科学は万能ではありませんし、実験の再現性のなさや不正を嘆く声も聞きます。ただしそれを『客観性の落とし穴』(この本にも言いたいことが山ほど)と言い張るのはお門違いで、「そこまで調べても間違えるほど、現実って複雑」と捉えるべきだと思っています。「現実世界が相手の場合は、個人の思いつきよりも実験で調べた方が余程まし」ということです。
翻って哲学。僕に哲学を語るほどの素養はありませんが、哲学の最大の武器が「考えること」だとすれば、幾つか異論があります。とりわけ先の書籍で気になったのは、考えることにつきまとう恣意性です。
考える時、人は対象を刈り込みます。自説の展開に有利な材料、反論できる事柄を集めると同時に、あんまり関係ない雑事どころか、ひょっとして突いたら蛇が出そうな藪は見て見ぬふりをしたりします。文章を書くとき、誰もが多かれ少なかれ「チェリーピッキング」をしていることは、ここに書いた通りです。
科学がこの枷から自由だとは言いません。ですが、先の書籍に限らず哲学を称する本では、選択の基準が僕にはよくわからないケースが多々あります。会話の背後にある仕組みを伝えるために、本物を切り捨て空想の産物を使う手はあり得ても、その決断を頷かせる根拠が欲しいのです。
ところが著者はこの点に口をつぐんだままで、それらしい説明は見当たりません。あえていえば、「[既存の]哲学では論じたいポイントだけを押さえた人工的な例をつくってそれを元に議論をすることが多いのですが、この本では[中略]フィクションで実際に登場する場面を例として挙げ、そのなかでどのようにして人々が会話を展開しているかを考えていきます」(Kindle版、p.16、[ ]内は本稿の筆者が追加)という記述でしょうか。なるほど「実際に登場する」のかもしれないですが、人工的な例であることは変わりませんし、自分でつくらなくても、無数にある作品から自分で選んでいれば、ほとんど同じでは。
何でそうなるの
議論の進め方にも恣意性が紛れ込みます。「〜かもしれない」と制限付きだった仮説が、理屈がよくわからないまま、いつの間に「〜なのだ」と断定に変わる論法をしばしば目にします。
先の本では、「もしかしたら、ロミオとジュリエットの悲劇は、コミュニケーションが成功してしまったことの悲劇だったのかもしれません」と書いた後に、「[コミュニケーションが成功した結果]ふたりのあいだには、[家を捨てるという]暗黙の約束事が生まれ…[中略]…ふたりのそれから先の行動は、その約束事に方向づけられざるを得ません。その遠い彼方に、悲劇が待っていたのでした」と続き、「伝わらないからこそなされたはずの発言が、思いがけず伝わってしまったからこその展開ですね」と断定します(Kindle版、p.133〜134)。僕は納得できませんでした。
ふたりの運命も気になったので、未読だった名作を慌てて読みました。しかし、ロミオとジュリエットのその後の振る舞いが「家を捨てる」という約束事に縛られているとは、ちっとも思えませんでした。ましてや、約束事を生んだ会話が悲劇の遠因だったとも。むしろ、婚礼を秘したことや届かなかった手紙といった、事実から人々を遠ざけるディスコミュニケーションが、二人の死を招いたと考えるのが普通ではないでしょうか。
まあ、自分の読みが浅いと言われればそれまでですが。激情に駆られたロミオが「哲学なんかまっぴらです(Hang up philosophy!)」(角川文庫『新訳 ロミオとジュリエット』Kindle版、1335/3006)と叫ぶのを見つけて喜ぶくらいなので、程度の低さは否めません。
哲学は私哲学
哲学がダメだと言いたいわけではないのです。ただし使いどころを選ぶべきではないのかと。そんなことを言い出すと、「哲学に実用性を求めるんじゃない」などと誰かに怒られそうですが。
世界をできるだけ忠実に記述したい場合は科学に軍配が上がります。客観が大切だからです。そうくれば、もうお分かりでしょう。主観が大事な場面こそ哲学の出番なのでは。世界を自分の尺度で測る物差しとして、あるいは現実の薄皮を切り裂くメスとして、ひょっとしたら苦い経験を飲み下すオブラートとして、哲学を使いこなせばいいのではないか。
私小説ならぬ、私哲学。全ての哲学は私哲学である。うーん。語呂が悪い。
実際、例の本の主張がしっくり馴染む人、新鮮な驚きに震えた読者は世の中に大勢いるはずです。でなければ、Amazonの200を超える評価で4.3、サクラチェッカーお墨付きの高得点は説明できません。僕とは単に反りが合わなかっただけで、目くじらを立てて3000文字も書き連ねる前に、「そういう考えもあるよね」と、スルーすればよかったのです。
あれ、そういえば、肝心の僕の悩みはどこへ行ったのでしょう。会話の科学は、話下手を治す役に立ったんでしょうか。
それはまた別問題。語り出すとキリがないので、また今度にしておきます。さわりだけ書くと、科学にしろ哲学にしろ、考えているうちはダメなんだと痛感しているところです。文法を気にし出すと英語が出てこない、どんなスポーツでもフォームを意識するとかえってダメになるのと一緒です。快癒はまだまだ遠そうです。
こんな文をなんで書く?
ここまで読んでいただいた方には、大いなる疑問が湧いたかもしれません。この文章最大のツッコミどころです。そう、科学を擁護しながら、自分は哲学風の構成で文を綴っているところ。
「哲学は私哲学」という小見出しのすぐ後で、いつの間に主語が「哲学」となっているのなんか典型です。「哲学について語る素養はない」「武器が『考えること』だとすれば」などと制約を設けた体を装い、ちゃっかり哲学全般を語っちゃってる。
しかも「私哲学」とか「自分尺度の物差し」とかいうなら、僕一人の心のうちに留めておけば足りるはず。愚にもつかない自説を長々と読ませて、あんた一体何様かと。
でも、そうじゃないんですよ。思いついたら、やっぱり誰かに伝えたい。抑えることのできないその気持ちこそ、全ての会話の原点じゃないですか。
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