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『いのちは のちの いのちへ』を読んで

家庭医として沖縄の離島で働いてきた特にこの数年間、患者のために頑張ろうとするほど、日本の「医療」という枠組みの中で感じる限界にぶつかり、コロナ渦における1人医師診療所という肉体的・精神的疲労も重なり、今年4月に退職した。


退職したもう一つの理由として、今年9月に第一子の誕生を控え、家族との時間を大切にしたかったから。計らずもがんと闘病中だった義父を、妻の実家で9月に看取り、その10日後に娘が誕生した。


そのような「いのち」の交錯する時相にまるで呼応するように、稲葉俊朗先生の本『いのちは のちの いのちへ』に出会ったことで、僕がぼんやりと目指してきた「医療」の姿が、よりくっきりと輪郭を帯びたように感じた。


生きとし生けるものへの愛と、「いのち」への賛美に満ちたこの本の、優しく美しい文章を紹介しながら、僕なりの気づきを記したいと思う。


最初に、この本を書かれた稲葉俊朗先生について軽く紹介すると、幼少期から病弱で入退院を繰り返した分、誰よりも「病」のもつ意味や、「いのち」と向き合ってきた。そこで抱いた些細な疑問や違和感に対して、そのままにすることなく向き合い、今は医師としてその「答え」を、さまざまな分野で発信し続けている。


部分的・近視眼的視点に陥りがちな現代医療に違和感を抱き、代替医療や芸術も取り入れながら、あらゆる職種や地域の人を巻き込み、「全体性」を取り戻す医療を創造しようと活動している。


そんな稲葉先生の書かれた本『いのちは のちの いのちへ』は、現代医療を一方的に批判するのではなく、本質的な感性から、優しい文体で、新しい「健康」を創造するためのアイデアを紡ぎ出している。


少し長くなるかもしれないが、彼の紡ぐ優しい文章と、その背景に感じた僕なりの気づきを共有したい。



「病気と健康は対立概念ではなく、互いに補い合う関係でもある」


病気にならない人はいない。健康以外の「都合の悪い状態」を「病気」としてラベリングし、発展したのが今の医療、「病気学」だ。そこでは、病気を健康と対立させ、取り除き、排除しようとする。


天気において、「雨」を予想して避けることはできても、「雨」そのものを取り除くことはできない。「雨」は「晴れ」と対立するものではない。天気が「悪い」も「良い」も人間側の都合、表現の問題である。これらは全て補い合い、循環して自然を形成し、私たちが生きる土壌になっている。


同様に、病気をある程度避ける(予防する)ことはできても、完全に排除することはできない。体調が良い時もあれば、悪い時もある。雨上がりに現れた虹を見て思わず感動し、気分が明るくなるように、病気を経て新たな「健康」という視点を手にすることもある。それは、生きていることへの感謝だったり、大切な家族に対する愛への気づきかもしれない。


「何かしらの不調が起きた時は、その不調を厄介なものとするのではなく、まず向き合ってみてほしい。そうした受容するプロセスを経たうえで、病院に行くのか、自分の自然治癒力で治っていくものなのか、その他力と自力との境界線がわかることで、自分だけの『健康』の意味が立ち上がってくるはずだ」


僕は、病はある意味でその人の「強み」だと思うことがある。人生の「鏡」のようなものだと思うことがある。病気と真に向き合っている人は、その人ならではの逞しさを感じる。逆に、病気を終始「厄介なもの」として、「他力」でなんとかしようとする人には、一種の脆さ、危うさを感じる。


僕は、「治療」という言葉を使う時にいつも違和感を感じる。それは、医療者が「治してあげている」という「他力」のニュアンスを、今の医療の文脈ではどうしても感じてしまうからだと思う。でも、多くの場合、患者が自然と治していることの方が多く、そのことを医療者も患者も自覚していないことが少なくない。


風邪や腰痛症といった多くの身体疾患や、うつ病や不安障害といった精神病はほとんどがそうだ。薬は症状を和らげる「対症療法」に過ぎず、「治している」のは本人自身である。


僕は、その人が病と向き合い、その人ならではの「強み」や「意味」を見出せるような手助けをしたいと思っている。その人が、病という自然の摂理も含めた「人生」の主役になってもらいたいと思っている。「自力」でなんとかできない部分だけ、医療という「他力」でそっと後押しできる存在でありたいと思っている。



「大切なのは、『違和感』を感じたら、その『ずれ』の感覚を大切にすること」


私たちは普段、どれだけ体の「違和感」に気づいているだろうか。体の大きな「叫び」を聞くことはできても、小さな「声」に気づいていないことは多い。それらに気づかないことが積み重なった結果が、病気という形で現れることがある。


体は正直だ。動き続けることをやめ、立ち止まってそっと耳を傾ければ、体の内なる声に気づくことができる。体と「対話」し続けることで、病気のもつ「意味」に気づくことができる。


少し発展的な見方になるかもしれないが、地球を「体」、コロナを「地球にとっての病気」ととらえると、私たちはいかに地球の内なる声を無視し続けてきたのではないか、という事実に気づくことができる。


自然から無条件に与えられる恵みや、至るところで私たちの生を支えている細菌やウイルスも含めた、あらゆる「いのち」に対する感謝を忘れてきたんじゃないかと思う。



「病と闘うために、日々細分化され進歩し続ける力強く父性的な医療という営み。その中にあって病院におけるアートの役割とは時に闘うことを離れ、そこで起こるすべての営みを根底からありのままに受け止めるという、もうひとつの母性的な視点として存在することだと考えています」


科学は、目に見えるものを分析し、人間にとって都合の悪いものは悪として排除しようとする。そのような、科学というパラダイムに依拠したのが現代医療なら、あるがままを受け入れ、共存しようとするのがアートというパラダイム、役割だ。


「人類の敵とみなして撲滅や殲滅という戦争のメタファーで捉えるのではなく、あらゆる生命と共存し共生する道を探していくという視点でみれば、人間側にも相手の居場所を奪っていたのではないかと、こちらが譲渡すべき道筋が見えてくる」


コロナは、科学というパラダイムからすると「厄介なもの」でしかないが、アートというパラダイムでみると、同じ「いのち」であり、共存していく存在でもある。そう考えると、コロナ渦におけるより良い生き方を、創造するための新たな気づきを得られるのではないだろうか。


科学という父性的な考え方と、アートという母性的な視点。これらは補い合うものとして、地球という「体」の未来を持続可能なものにするための、鍵になってくると信じている。



「地球という共有地に住んでいる私たちが常に問われているのは、自然との関係性だ。私たちの心も体も内なる自然そのものであり、自然の原理のもとで生きて、生かされている。外にある自然と私たちの内的自然との関係性が壊れたり切れたりしてしまうと、内的自然は外的自然と呼応し合うようにバランスが崩れる。外的自然とどのように共生していくかということは、結局は私たち自身の内的自然との共生にも直結している」


僕が日本一過酷と言われる沖縄の急性期病院で研修していた頃、休暇には必ずと言っていいほどニュージーランドへ行っていたのは、圧倒的な外的自然との出会いを通して、内的自然との関係性を取り戻そうとしていたんだと、今になって理解している。


僕はアウトドアが大好きだ。今年の8月にも北アルプスへ友人と登ってきた(挿絵の写真はその時のもの)。自然には、科学では推し量れない健康への可能性が、まだまだあると思っている。将来は、アウトドアを通して人々のウェルビーイングに貢献したいとも思っている。


心を病んだ人で、病院からもらった薬を下手に飲むよりも、自然の中で数日過ごす方が体は喜ぶだろう。不眠や動悸といった体の悲鳴は、次第に息を潜めるだろう。その人にはその人本来のもつ、内的自然という治癒力が存在し、医療者は両者の断ち切れた関係性を整えるだけで良いことがある。


カナダでは近年、国立公園への年間パスを、医師が患者に処方できることを制度化した。自然に触れることや森林浴が、生活習慣病などの身体疾患だけでなく、うつ病や不眠症といった精神疾患にも良い効果をもたらすことが、科学的に証明されつつあるからだ。


同様のアイデアは無限にある。ヨガや瞑想といった、心や体が喜ぶ体験を「処方」したっていい。医師は、そのようなスキルをもつインストラクターへ、患者を紹介してもいい。魂を病んだ人には、スピリチュアルなヒーリングに通じる人へ紹介するのもありだろう。カナダのような取り組みがどんどん広がって欲しいと思うし、僕も広げる立場になりたいと思っている。


内的自然と直につながっている人には癒しの力がある。それは、圧倒的な外的自然の美しさを目にした時の癒しに通じる。ある人との対話を通して、美しい大自然を目の前にしたかのような癒しを感じたことはないだろうか。それは、その人の底抜けした内的自然を通して、自分自身の内的自然に出会い、癒されているのかもしれない。


医療者が患者から癒しを受けることもある。死を目前にした終末期の患者の、全てをあるがままに受け入れ、運命を自然に委ねている時の姿は、大自然そのものだと感じることがある。そのような患者を看取った後の清々しい感じは、その人を通して自分の内なる自然を取り戻してるのだろう。


今の医療の世界で、内定自然とつながっている医療者は、どのくらいいるのだろうか。患者を救うはずの医療者が、癒しの源泉としての内的自然と断たれていることは、少なくないのではないだろうか。内的自然に通じることがより必要なのは、患者よりも医療者なのかもしれない。


僕は、内的自然にいつも通じていたいと思っている。アウトドアが好きでたまらないのは、自分の内なる自然の力に通じていたいという欲求から来ているのだろう。医師として、患者が内なる自然に通じ、自身の持つ強みに目覚める手助けをしたいという願いがあるからかもしれない。



「私が思う新しい医療の場は、『いのち』というフィロソフィーを中心にして、役割や立場から自由になって人が集う場だ」

「人間だけではなく他のあらゆる生命も『いのち』として生きている。雑草、虫、ウイルスも、その呼び名で呼んでいるのは人間の都合であり、地球や宇宙の視点からすると、すべては『いのち』である」


現代医療、特に日本の医療は、それ以外の分野に対してあまりにも「閉じて」いる。福祉や介護といった他のエッセンシャルワーカーや、ヨガや瞑想などウェルビーイングに貢献するさまざまな分野で活躍する人にも「閉じて」いる。そもそも、健康の主役であるはずの患者を、その土俵から「閉ざして」いる。


医療はもっと謙虚になるべきだ。役割や立場を超えて、他の職種と手を取り合うべきだ。医療という枠を取っ払った新たな「処方」の形を模索すべきだ。それは、稲葉先生の言うように、「いのち」という平等な哲学を軸にして可能になると思う。


「医療の世界は、あまりにも細分化された世界に閉じて解決策を求めるのではなく、一般社会や他の分野に『開かれて』いくことで、安全で安心な場をともにつくる挑戦が必要だ」

「『病気学』の集大成として『病院』が生まれたのならば、『健康学』の集大成としての新しい土壌を耕すことが、今求められている」


僕がやりたかったのは、「病気学」よりも「健康学」だったんだと、この本を読んで気づくことができた。病気のプロじゃなくて、健康やウェルビーイングのプロになりたかったんだと改めて知ることができた。


将来は、「病気をみる病院」ではなく、「健康を育む保養所」のようなところで、その人のもつ強みに働きかけたい。「全体性」を取り戻すための新しい医療や街づくりに貢献したい。そのための次のステージを今、模索している。


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ここからは、稲葉先生のもう一つの著書『いのちを呼びさますもの(赤本)』からも、印象に残った文章を少しだけ紹介したい。最初に紹介した著書『いのちは のちの いのちへ(青本)』が、これからの医療のあり方に対する問いかけであることに対して、赤本は私たちの健康や病の本質に対する問いかけである。



「もっとも重要な人生のテーマは自己認識であり、『わたし』を知ることなのだ」

「体は嘘をつけない。体には嘘という概念すらないだろう。身体症状や病気は、心の奥底に隠しているものの存在を改めて気づかせてくれる」


人生の最終的なゴールの一つは、自分自身を「知る」ことだと僕も思っている。


人生の歩みは、気づくと足速になっていることがある。走りっぱなしになっていることがある。足元に咲く野花の美しさに気づかないことがある。病気は、時にそのような足取りのブレーキとして作用することがある。このように考えると、病の持つもう一つの大切な意味に、気付かされるのではないだろうか。


「『健康』とは、何かしらの『答え』として存在しているのではなく、自分自身の体、心、魂、命と対話し続けるための『問い』として存在している」


人生は自分との「対話」の連続だ。心との、体との、魂との対話の連続だ。


対話に対して「答え」ばかりを求めると、それは「解決すべきもの」という、少し偏った、貧しい見方しかできなくなる。「問い」という余白を持ち続けることで、人生の「意味」という創造的な見方が可能になる。


体や心、魂と「対話」し続けるプロセスそのものが、本当の意味での「治療」なのだと思う。医療者は、一方的な「治療」によって、そのような「対話」を時に邪魔してしまう危うさを持っていることに、自覚的であるべきだと思う。


「医療とは、人間の全体性を取り戻すものだ。芸術も、人間の全体性を取り戻すものだ。そして、体も心も命も、秘された全体性をもって生きているものだ」


稲葉先生の本には、「全体性」という言葉が多く出てくる。たった3文字の言葉だが、この言葉にはこれからの「健康」のあり方への深い問いが含まれている。


人を、体と心、魂をもった存在としての「全体性」
病気を、健康と表裏一体な存在としての「全体性」
過去から今、そして未来へという時間軸を含んだ「全体性」
医療だけではなく、癒しやケアを生業とする全ての職種を含んだ「全体性」
病院だけではなく、生活をも含めた場づくり、街づくりとしての「全体性」





「全体性」への近道は、自分の感性を曇らせないこと、子どものような心をもち続けること、違和感をそのままにしないこと、自分の内なる宇宙に「開いて」いることだと思う。


僕は今年の9月に、第一子である娘の誕生を迎えた。


子どもとの「対話」は、何より僕の感性を開かせてくれるものだと思っている。子どもは「大自然」であり、生まれながらにして内的自然と直結しており、人生の「パートナー」であり「師」だという信念がある。



長くなりましたが、この文章に興味を持ち、最後まで目を通して頂いてありがとうございます。この世の中が、医療に携わる者にとっても、医療の恩恵を日々受けている者にとっても、より「美しい」世界でありますように。そのような世界に貢献したいという、願いと宣言を込めて。

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