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将門公の首塚を真正面から写してはならない

 霊感も不思議体験もほとんどない私が、「平将門公の首塚を真正面から撮ってはいけない」という都市伝説を聞いたことがあり、興味半分で真正面から撮影したことがあった。次の日見事に39度の高熱が出たのだ。いくら心霊スポットに行こうが何もなかった私としてはヒャッホーとなったのだが、その次の日に何もなかったかのように解熱した。
 都市伝説の類は全く信じないが、何かに感染した症状もないのに熱だけ出たことを不思議に思うと同時に将門公に畏敬の念を持った。
 平安時代中期に平氏一族の抗争の最中、国府を襲撃して印綬を奪い、朱雀天皇に対して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって朝敵とされ、即位後2ヶ月足らずで藤原秀郷、平貞盛により討伐された。その首は平安京へ運ばれ、晒し首となった。その首が故郷に向けて飛んでいった際に落ちた地点が現在の将門塚だとされる。ここには様々な曰くがついてまわり、もう1000年ものあいだ何らかのエネルギーを放っている。

平将門公

 平将門公は、平安時代中期の903年(延喜3年)に生まれた。桓武天皇の血筋を引く5代目とされ、桓武天皇のひ孫にあたる高望王という者が上総国(現在の千葉県中部)の国司を務めた。

高望王(平高望)

 高望王の子供は全部で5人、良文・良正・良将・良兼・国香で、良将が将門の父で、下総国佐倉(現在の千葉県北部)を所領していた。

 将門は、15歳で京に上り、藤原北家、忠平の従者となり、検非違使を志願するが叶わず、官位も低く天皇の御所護衛をする滝口の武士に留まっていたとされる。
 この時代は律令制が崩れ始めており、天皇をとりまく貴族の中でも朝廷の要職は藤原氏が独占していた。地方の政治は国司が横暴しており退廃していた。要職に就けない貴族は武士になるしかないという背景もあった。
 父良将が逝去し、将門は検非違使の夢を諦め家に戻ると、父の所領が叔父の良正、良兼、国香らに横領されていることが発覚する。さらに将門が妻に望んだ源衛という者の3人の娘の3人ともが、叔父・良正、良兼、国香に嫁いでしまっていた。それに激怒した将門は935年(承平5年)源衛の3人の息子と、叔父の国香を殺害する。自分のいない間に父の名誉が穢されていたのだからそれは怒って当然である。
 これに怒った叔父連合、源衛が良正に泣きつき将門討伐を企てるが、将門に大敗する。検非違使を志した将門はかなりの戦上手だったと考えられる。次に良正は、良兼と国香の子貞盛と連合軍を作って将門を攻撃するが、これも惨敗する。
 打つ手がなくなった源衛は、朝廷に将門を訴えることにする。これにより将門は、検非違使で尋問を受け、捕らえられてしまう。しかし、937年(承平7年)4月、朱雀天皇が元服する際に恩赦が行なわれ放免される。
 それでもまだ許せないのかしつこい良兼は、8月に軍を起こし将門を攻撃する。流石に単純に喧嘩しただけでは収まらないと感じたのか将門はかつての主人に藤原忠平に良兼、貞盛の暴状を訴える。
 その後12月に朝廷から良兼、貞盛追捕の官符が発せられ、良兼軍の勢力は衰えた。さらに939年(天慶2年)6月、良兼は病死する。一方、その時貞盛はバックれており将門が捜索しても行方が分からないままであった。将門の不義理な叔父連中に対する連戦連勝ぶりは関東で大きく広まり、名声を高めることになった。権力に溺れた者どもを薙ぎ倒していったのだから人気になるだろう。
 平将門の乱が起きたのは、939年(天慶2年)11月。藤原玄明という者が税の不払い問題で常陸国司と対立し、将門に助けを求めたことから始まった。常陸国司は将門に藤原玄明の引渡しを要求するが、将門は応じず、合戦に発展した。

平将門の乱

 やはり戦上手の将門は1,000の兵で、常陸国府軍3,000の兵に大勝してしまう。そして、常陸国府を焼き払い印綬という朝廷が国司に与えた証明書を略奪してしまう。この行動は朝廷から常陸国を略奪したことを意味し、完全に朝敵となってしまった。それまで、将門がらみの戦については領地と女性をめぐる親族間の揉め事程度だと朝廷は認識していたが、今回は謀反であることに憤慨する。
 朝廷の要職は藤原氏が独占し、地方の政治では国司が横暴に振る舞っており、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役に苦しめられていた状況に将門は常々不満を募らせていたのだろう。
 藤原玄明は、税を払わずに朝廷が管理する蔵を襲い米を民衆に分け与えていた人物であった。いかにも末世なそのパンクな振る舞いに将門は共感したのだろう。
 将門はさらに勢いを増し、国司から次々と印綬を奪って追放した。上総・下総・安房・下野・武蔵・相模の関東8か国を占領し、民衆を味方に付け自ら「新皇」を名乗る。
 将門公は真面目で、苦しんでる人をほっとけない義理堅い人である印象だ。腐敗した世の中をさぞ憂いていたのだろう。しかも戦には強く行動はパンク、閉塞した世界を変えようとしたカリスマ性がある。単純に格好いい。
 将門の謀反は即刻京に知らされることになる。朝廷は激怒し将門討伐を決意し、将門を呪い殺すため祈禱を行うがもちろん全く効果なし。後に怨霊となるのだから叶う筈ない。
 その後朝廷は、将門を討ち取った者は、身分を問わず貴族にすると全国に勅命を出した。これを知った平貞盛と、貴族になりたくて仕方なかった藤原秀郷(俵藤太)は、ここぞとばかりに連合して出陣。940年(天慶3年)2月14日、天慶の乱北山合戦で流れ矢に当たり将門は戦死する。
 なお、同時期に瀬戸内で、藤原姓でありながら、出世の道を絶たれた藤原純友が海賊を率いて「藤原純友の乱」を起こし、鎮圧される事件もあり、この2つの乱を合わせて「承平・天慶の乱」と後世呼ばれる。
 これらの物語が残されたものを「将門記」と呼ぶ。日本で最初の軍記物語であり写本が2冊現存している。

将門記

 将門記によると平将門は939年に、八幡大菩薩よりの神託を受けて新皇を自称したと記載されている。戦の神ハチマンと結びつけられており、将門の戦闘能力の高さが窺える。死後将門は、崇徳天皇、菅原道真と並んで「日本三大怨霊」と呼ばれることになった。
 将門の死後の4月25日、首は藤原秀郷により平安京の七条河原に運ばれさらし首の刑に処された。

京都の民家の中にひっそりとある

「京都 神田明神」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれるようにして小さな祠があり、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒シタ所也」と由緒書きにはある。

将門の晒し首

 言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。
 「太平記」にも、さらしものになった将門の首の話が書かれている。将門の首は何か月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き夜な夜な、
「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」
と叫び続けたので、恐怖しない者はなかったとされている。
 しかし、ある時歌人の藤六左近がそれを見て、
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」
と歌を詠むと、将門はからからと笑いたちまち朽ち果てた。笑って朽ちるところがまた格好いい。

藤六左近

 その後将門の首は青白く光り故郷の関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて落下した(もしくは運ばれた)この落下地点が東京都千代田区大手町にある将門塚である。

 この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれており、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたらしい(天変地異や疫病の蔓延が祟りと噂されたのであろう。将門公の首にまつわる伝説は日本各地に残っているのだが)
 そこを諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が1307年(徳治2年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した石塔婆を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したらしい。つまり、300年ほど経ってから建立されたものである。

他阿上人

 その後、徳川家康の江戸入府後江戸湾北西奥の日比谷入江が埋め立てられ、武家屋敷の用地となった。江戸時代初頭は老中土井大炊頭利勝の邸内となり、1636年(寛永13年)には大老酒井雅楽守忠清(前橋藩)の上屋敷となった。

 そこでは伊達騒動と呼ばれる仙台藩原田宗輔による刃傷沙汰が発生している。
 その後1871年(明治4年)8月より上屋敷を大蔵省の庁舎とし、旧建物がそのまま使用された。朝敵とされた将門公の首塚は渋沢栄一により保存されたらしい。
 1906年(明治39年)には大蔵大臣阪谷芳郎により「故蹟保存碑」が建てられた。大蔵省により庭園の様子は測量など調査されたが、この際に「芝崎古墳」という名の古墳が存在していたことが記録されている(これについては後述する)
 その後1923年(大正12年)関東大震災による被災後、周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われ、古墳が崩された。
 その後、1926年(大正15年)第一次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣であった速水整璽が突然死し、管財局技師工事部長だった矢橋賢吉も亡くなるなど続けて不幸があったため祟りが噂されるようになり、1927年(昭和2年)に鎮魂碑が建てられ、神田神社の宮司が祭主となって鎮魂祭が執り行われた。

当時の新聞記事

昭和3年3月27日 東京朝日新聞
「将門の霊よ、この通り謝る、大蔵省のお役人達がおぢ気ふるつて鎮魂祭」
同年3月15日 報知新聞
「怖気づいた将門の亡霊大法會」

当時の新聞記事の見出し

 1940年6月には落雷による大蔵省庁舎焼失を含む大手町官庁街の火災が起こっている。
 1945年(昭和20年)の東京大空襲で一帯は焼け野原となり、終戦後米軍施設建設中、将門塚の辺りで米軍のブルドーザーが転覆し、運転手が投げ出され死亡、作業員2名が突然の事故で死亡した。他にも事故が続き町会長の遠藤政蔵がGHQに訴え、保存に至ることになった。
 その後、昭和30年代には接収が解除され、周辺西側は国税局・運輸省航空局に、東側は三井生命・日本長期信用銀行に払い下げられた。1960年(昭和35年)に「史蹟将門塚保存会」が結成され、第一次整備工事が1961年(昭和36年)、第二次整備工事が1963年(昭和38年)、第三次整備工事が1965年(昭和40年)、第四次整備工事が1973年(昭和48年)、第五次整備工事が1976年(昭和51年)第六次整備工事が2021年に行われた。

 この地はかつては盛土と、内部に石室ないし、石廟と見られるものがあったので、古墳であったと考えられている。

大蔵省は焼跡の整理に際して、蓮池を埋め立て、崩れた塚も平らに整地してしまうのだが、その時工学博士大熊喜邦氏に依頼し発掘を試みた。その結果古い石室と近世のものと思しき瓦・陶器の破片が出土したという。またかつて盗掘された痕跡のあることも確認されたが、これといった遺物はなかった。

松崎憲三「塚をめぐるフォークロアー将門塚・道灌塚の分析を中心にー」より

 平安時代にはすでに薄葬令(646年)が出ていたため、そこにあったのは古代の豪族の墓だった可能性が高い。周辺では大塚、円山、稲荷山、摺鉢山など古墳にちなむ地名が多く残されている。ChinchikoPapa氏の「落合学(落合道人)」のサイトの「芝崎古墳=将門首塚の面影」によると、芝崎古墳は20〜30メートルほどの前方後円墳だったとされる。

大蔵省玄関の前に古蓮池あり、由来是を神田明神の手洗池なりと伝ふ。池の南少し西に当たり将門の古墳あり、高さ凡そ二十尺週廻り十五間許、(中略)塚前の東二間許に礎石あり。幅七尺長九尺許、中心に今は古石灯籠を置く此物は昔塚前の常夜燈にてありしならん。此礎石は真教上人の蓮阿弥陀仏の諡号を刻せし板碑を此の上に立たりし事は疑ふべくもあらず云々。

織田完之「平将門故蹟考」より

 おそらく、元々は古墳であったのだろう。これに芝崎村の天変地異、飢饉などにより将門の首の伝説が付随したものだと考えられる。その後時宗による布教活動によりその伝説は強化されたと考えられる。
 さらに昭和の終り、東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』でまたもや首塚は取り上げられた。将門公は「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。

映画「帝都物語」の加藤様

 その後、長い歴史を経てそこは祟りエネルギーを溜めたのか、民衆に呼ばれた将門公がよいしょと座ってくれたのか。今もビルの中で妖艶で神秘的なエネルギーを発し続けている。

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